整体の元祖。野口整体とは…なんてね。

二本足の鶏は、それが生きてるうちは自由に立って歩けるのに、それが死んで剥製にすると、なぜだろうか二本足ではどうにも立たない。
 
生きてるときと、姿形はまったく同じなのです。なのに死んでしまうと、もはや二本足では自立出来なくなってしまう。
 
こりゃダメだってんで、仕方なく、つっかえ棒をする。つっかえ棒をたして三本足にし、それでようやく生きてたときと同じように剥製の鶏は立つことが出来る。
 

  
人間も同じで、死んだらそれを二本足で立たせるのは難しい。
 
じゃあなぜ生きてる鶏や人間が二本足でたてるのかというと、生きてる鶏や人間には、目に見えない三本目の足があるのです。
 
その三本目の見えない足が、人間を人間として立たせている。
 
 
 
その三本目の足とは生命そのものなのです。生命が生きたいとする、その生の要求こそが、人間を立たせる三本目の足なのです。
 
 
 
そして、この目に見えない三本目の足を相手にするのが、我々の操法野口整体)なのです。
 
 
 
目に見える二本足を、そのまま相手するのではダメなのです。
  
お腹が痛いといって、じゃあお腹を切ればいいかと言ったら、それは機械を修理するのと同じです。
 
お腹が痛くなるのは、お腹を痛くする生命の要求がその人の中にあるからなのです。そこに我々は手をつけるのです。お腹が痛いというからお腹に手をつけるじゃ、それは素人なのです。
 
 
その人の、目に見える痛みや病いを正すのではなく、その人の、目に見えない生命の姿勢を正す。
 
 
我々は治療をするのではなく、その人の生きようとする力、自分自身で治ろうとする力をただ引き出すことをするのです。それに勝る薬はないのです。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
ってことを、たぶん野口晴哉先生なら言うんじゃないかと、思い出したり、想像しながら書いてみた。
 
 
このごろ「あなたがやってる整体ってのは、どんなもんなの?」と聞かれることが多いので、まあ、大まかにいうとこんな感じでしょうか。原理主義的というか、たぶん、ちまたの野口整体をやってるって人たちとも、かなり違うかもしれません。(うちの先生は、まわりで野口整体って看板出してるところを詐欺師呼ばわりしてるし)
 
 
ただ、目指すのはそことしてやってるけど、病んでる場所を見つけると、やはりまだ病んでる場所が気になってしまう。そこを押さえたら治りそうだとか思ってしまう。治したいとか思ってしまう。
 
 
まだまだ未熟きわまりない。
 
 
ちなみに三本目の足というのは、いってみればビンビンってことです。
 
「人をビンビンにすることこそが、我が整体なり・・・・・・」って、いつか言い出したいもんですなあ。

ビンビン古事記物語

Facebookに載せた文章を、このごろはブログにも載せたりしている。
 
 
すると、ブログにはアクセス解析なんて機能があって、どの日に、どんだけのアクセスがありましたよこの人気者っていうのが分かるようになってるんだけど、
 
これが不思議なことに、5日前のアクセスが、なぜかその日だけグーンと伸びるという事件が起こった。
 
 
 
はてさて、5日前・・・・・・。
 
べつに自作自演したとか、市川海老蔵をまんじゅうにして食べましたとか、たこやきを落としたと思ったら市川海老蔵でしたとか、そんなことをした覚えもないのに一体なぜ・・・・・・。
 
 
が、その日の文章を見て、すぐ合点がいった。
 
 
 
そう、ビンビンである。
 
その日の文章で僕は、北斗の拳ラオウ様はビンビン大明神って感じで、一回の文章に15回も「ビンビン」と言ったのだが、つまりそれである。
 
 
みんなビンビンになりたいのだ。妖怪人間の「はやく人間になりたーい」よろしく「はやくビンビンになりたーい」者たちが、このラオウ様のエレクトエネルギーに吸い寄せられるようにして集まってしまったのだ。
 
 
  
そうかそうか。みんなビンビンになりたいか。
 
確かに僕の周りでも、彼がノットビンビンで、まるで天の岩戸でも閉じられたかのように世界が闇になってしまった女性が数多くいる。
 
いや、事実、ノットビンビンが一種の引きこもり現象だとしたときに、それはまさに神話の天の岩戸隠れそのものといって過言ではない。
 
 
 
ちなみにいうと、いま僕は、いたって真面目である。
 
いたって真面目に、ノットビンビンがどれだけ天の岩戸隠れなのかを言うと、ノットビンビンとは、つまり陰と陽が交わることを拒んでいるという状態なのだ。
 
どういうことかというと、万物は、陰と陽が交わることではじめて育まれる。陰と陽がそれぞれ旺盛にバランスよくしてるだけじゃダメで、それをつなぐビンビンがあってこそ、はじめて世界に調和が保たれるのである。
 
 
 
古代中国では、ビンビンのことを道(タオ)と呼んだ。陰と陽を繋ぐ道、それはすなわち、ビンビンのミルキーウェイに他ならない。
 
 
天の岩戸隠れとは、その陰と陽を結ぶミルキーウェイが、まさに遮断された状態なのだ。男が男の世界に篭もり、女が女の世界に籠もる。照らす者の光が、照らされる者に届かない。自分の姿が、もはや鏡に写らない。
 
そしてそうなったときに、世界はお互いをつなぎ止める接着剤を失ったと同じ状態になり、ボロボロこぼれるように、ゆるやかに崩壊をはじめるのである。
 
 
 
つまり、ノットビンビンとは、世界の終わりの始まりなのだ。
 
この昨今の二極化は、お互いが内に引きこもった、まさにビンビンを失いつつある世界の姿なのだ。
 

  
としたら、これは大変だ。一刻も早く、ビンビンの天の岩戸開きが必要じゃないか。さあ、祝詞をあげよ。ビンビンの大御神出現祈願の祝詞をあげよ。

さあ舞い踊れよ、アメノウズメ。自らが女性であることを忘れ、一心不乱に舞い踊れ。自らを忘れ、世界の壁を溶かしたもれ。恐怖を越え、八百万のすべてをまるく一つに納めたまえ。
 
高天原に笑いが咲く。神々もいまや自らを忘れた。
 
天の岩戸が少し開く。大御神が鏡を見る。照らす者の光が、照らされる者についに届く。自分の姿を、ついに陰の世界に見つける。あなたのなかにわたしを見つける。
 
愛おしくなる。尊い神はわたししかいないと思ってたのに、ああ、あなたもなんて尊い。なんて愛おしい神よ。
 
そして、ついに天の岩戸は大きく開いた。光が天の岩戸を押し開き、光と闇がひとつとなり、二つの世界をひとつに結んだ。
 

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モスバーガーは、あっちの世界の入り口

「ここで働かせて下さい。」と書かれたTシャツを着てる初老の男性が、モスバーガーで、あごに手を当て首を傾げている。さらには、たまに斜め上を見上げ、ぼーっとなにかを考えている。
 
 
 
これは面白い。なんという圧倒的な存在感。一目見て分かってるのに、何度も何度もその胸の文字に目がいってしまう。「ここで働かせて下さい。」って、千と千尋の神隠し・・・・・・にしては初老過ぎる。ドキュメンタリーX過ぎる。
 
思わず、この初老の男性が、油屋で働いてるところを想像してしまった。風呂桶で滑って、後頭部を強打するのである。
 
 
ああ、心配だけど、そうなってほしい。後頭部を打って欲しい。
 
 
 
というか、ただの初老の男性が、Tシャツ一枚でこんな想像力かき立てられる存在になるとは。これぞまさにアートじゃないか。これこそが、昨日言ってた、イデアが顕現されたということじゃないか?
  
 
意識では思ってないけど、心の奥の奥で思ってることが顕現される。
 
これがイデアの顕現であり、アートである、としたら。
 
 
おお、たとえるなら、人にあだ名を付けるというのも、いってみればアートそのものじゃないか。
 
 
 
以前、有吉弘行さんのラジオを聴いたときに、かの武田鉄矢さんのことを、「赤のきつねと、緑のたぬきを食い散らかす、茶色いオランウータンこと武田鉄矢さんが・・・・・・」というふうに紹介していたが、これはまさにイデアの顕現。聞いた瞬間にイメージが洪水のように溢れる、なんと芸術的な人の紹介の仕方だろうか。
 
 
そうか、あだ名か。笑いもアートと同じ、イデアなのか。
 
 
そうと分かれば、僕も人にあだ名をつけたい。
  
 
さて誰にしよう。出来たらもう死んでる人がいいな。というのも以前mixiをやってたときに、木村カエラを、「首の太い木村カエラ」と言ってたのを熱狂的なファンに見つかって、あやうく刺されそうになったことがあるからね。
 
 
というわけで、よし、アレクサンダー大王にしよう。
 
では、アレクサンダー大王のあだ名は・・・・・・
 
 
 
 
「Gカップ」
 
 
  
うーむ。。。確かこんなことを、中学生のころにもやっていたような気がする。。。ああ、なんだか身体が寒くなって眠たくなってきた。もう秋ですね。

美しさってなんやろね

 

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点と点があると、その間の空白に線を引きたくなるのが人間ってもんです。
 
というか、線を引きたくなるじゃなくて、無意識が見えない線を自動的に引いちゃうんでしょうな。人間の想像する本能というか。もっといえば無意識が、その空白に線を引きたくて引きたくて仕方がない状態になるというか。
 
だから実線じゃなく、その無意識が作る目に見えない線で絵を描けたら最強に違いないって思うけど・・・・・・
 
意識は見えないけど、無意識が見ている線を表現したらかなり強そうな気がするけど・・・・・・
 
 
 
ただ、それをいうと、表面の点と点という目に見える象徴だけじゃなく、裏面の象徴みたいなもんも考えなきゃいけないんでしょうね。
 
いわゆるレイヤーっていうんですか。
 
ああいうので、単純に描かれる表面的な階層の奥の奥に、それこそ個人の想像力を超えた黄金比やら、もっといえばあっちの世界のなんかを表現できたら、これも間違いなく強い気がする。
 
 
なんて考えてると、美しさっていうのは外にあるもんじゃなく、その人の中にもともとある、美しさのイデアを引き出すってことなのかなーとか思えてくる。って、そんなことを誰かも言ってた気がする。
 
 
 
簡単にいうと、美しさとは、ある種のデジャブなんですかね。
 
美しさとは、見たこと無いけど、なにか見覚えのあるものによって僕らの中から現れる感覚なのでしょうか。
 
 
でも、だとしたら、ちょっとつまんないなあ。
 
 
グラビアアイドルが、カメラマンの、そうそうそう! いいよ、いーよ! って欲しがる声に自分をハメてくような感じで、なーんかなあ。汚れちゃうようでやだやだ。
 
 
けど、もし、まだ人類が誰も発掘できてないデジャブを発掘出来たら、それはそれで、ちょっとは面白いような気がする。
 
 
きっと世の中にある、大ヒット商品! みたいなもんは、その誰も発掘出来てないイデアに少し触れてるから、みんなが熱狂するのかもしれない。
 
 
未発見の黄金比をついに発見! みたいな。って錬金術か。
 
 
まあ、そのためには自分が、そのデジャブを自分の中を深く潜って見つけないと。自分のなか、生命の奥に眠る、誰も見たことない黄金比を見つけられたら、それはそれで。面白いかも。
 
 
だとしたら技術ゼロでも、この世界で僕みたいなのにも出来ることが少しはありそうな気がする。
 
糸井重里がいくらプロの力を使っても見つけられなかった埋蔵金が、もしかしたら、ここ掘れわんわん言うポチの声で、あほな僕でも見つけられるかもしれない。
 
 
って、花咲かじいさんって、実はそんな話だったのか。
 
 
あほだからこそ、犬のいうことを信じられるっていう・・・・・・って、そう思えば、いまの僕はまさにそれじゃないか。そこにお宝があるから! じゃなくて、心の中のわんわんいうポチに従って、ほっほっほって、なにも無さそうな場所にただ穴を掘ってるというか。
 
 
まあ、けど、どうなんだろ。犬の声が聞こえる限りは掘ってみますか。

 

ビンビンの下駄

昨日の文章に急にコメントがいっぱいついたんですが(Facebookにあげたらついたんです。ここにはゼロ)、あの、みなさん、もうちょっと考えてはくれませんか。
 
てのも、僕は繊細なんです。下品だけど、趣味は石拾いなんです。かわいい石を拾っては、この石の顔はここかなと、ほっこりしちゃうような人間ですよ。
 
そんななのに、いきなりあんなコメントが来たら、もうタマちゃんですよ。多摩川のタマちゃんですよ。最近テレビ見てないからこんな喩えしか思いつかないタマちゃんだけど、急に名前付けられて「タマちゃ~ん」って囲まれたような、そんな気分ですよ。
 
 
ああ、こんなにたくさんのコメントに返信してたら、僕のルーティーンが爆発しちゃう・・・・・・
 
ってな感じで、僕にはちょっと自閉症的なとこがあるので、そのへんこう、野生動物や、芸能人の自宅を見守る感じで、たとえば一つの記事につき3コメントくらいが理想的なので、これからはそれでお願いします。
 
 
 
・・・・・・ってのは、まあ冗談ですけど、とりあえず昨日書いたことについて、もうちょっとだけ書きます。
 
 
僕らは、自らの目線を変える下駄を履いて生きているって話で、その下駄のひとつにお酒があるってことを昨日は書いたんですが。
 
 
もし下駄って言い方がピンと来ないってんなら、一種の燃料か、もしくは、まむしドリンクみたいなもんだと思ってください。お酒を飲むことで、ブースター装置が発動しますよみたいな。まむしドリンクを飲むことで、あなたビンビンになりますよみたいなって、もっと分かりづらいか。
 
 
まあ、ともかくお酒は物理的に人の脳に影響を及ぼすわけですよ。大脳を麻痺させ、その人の認知能力になんかしらの変化をもたらすわけです。
 
これを、まむしドリンクでいうと、まむしドリンクを飲んでビンビンになった人は、それまでのビンビンじゃなかったその人とはまるで別人なわけです。ビンビンな人は、もう見える世界が違うのです。自信に満ちあふれ、自分がまるで夜の帝王にでもなったかのようになって、顔に似合わない北斗の拳ラオウの台詞なんかをついぞ口走ったりしちゃうのです。
 

 

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つまり下駄というのは、僕らが自分自身をどれだけビンビンにさせて生きてるかという・・・・・・って、いよいよ自分でもビンビンビンビン言い過ぎて、こいつ頭おかしいぞと思えてきた。
 
 
 
まあでも、ここまで来たらと身を切り刻んで下ネタで話を続けると、じゃあですよ。
 
じゃあ、僕らがまむしドリンクを飲まずしてビンビンになるのは、一体どんなときなのか? これが問うべき根本です。みなさんよく考えてくださいよ。僕らはいかにしてビンビンになるのか? と。
 
 
 
で、それは、この世界に触れたい存在があるときです。いわば欲しいものが、関わりを持ちたいものがあるときに、人はビンビンになる。これがつまり下駄ってことです。
 
 
この世に関わろうとするものがあるとき、その時点で人は下駄を履いてるのです。その時点で、ややビンビンなんです。欲しいものがあるとき、その人は、その人、個人の感覚とは違う、一種の集合的無意識の感覚になるのです。
 
 
 
で、こんな話をしたくなかったんだけど、たとえばこう考えてください。
 
1分間だけ、「わたしはこの世界に欲しいものがなにもない」と思ってみる。ただここに私がいるだけだと。わたしは、ありとあらゆるものから解き放たれてると。
 
 
 
これが、つまり瞑想ってやつです。
 
そして言ってみれば瞑想は、自分自身をノット・ビンビンことフニャフニャにする方法なのです。
 
 
この世に執着がなくなるってのは、そういうこと。下駄をすべて脱ぐ。まむしドリンクを全面カットして、まるで赤ちゃんのようなビンビンとはほど遠い自分になるってのが、まあ、人がこの世界をまともに見るってことなんです。
 
 
で、それって一体どうなのか・・・・・・っていうね。
 
というのも、なんだかんだ言って、みんなビンビンに生きたいでしょ?
 
 
 
 
にしても、真面目にビンビン言い過ぎて、感覚がなんかおかしくなってきた。我が人生に一片の悔いなし。

楽しみの下駄

お酒を飲むと楽しくなるという人がいる。
 
 
僕がお酒を飲まないというと「あら可哀想に」と「なにが楽しくて生きてるの?」と聞いてくる人たちのことだ。
 
もしくはそれこそ僕に八塩折の酒を飲ませ、それにより昏倒した隙に僕の股間のヤマタノオロチを顕現させ、なおかつ荒れ狂うオロチをその神妙な妙技にて鎮めせしめようとする神の使いことゲイな人たちもそう。って、はい、ごめんなさーい。
 
 
このまえ会った友人に「ひこくんの文章は、普通の女子が読むとまずドン引きするよね」と言われた意味を「ふーん」と噛みしめつつ話を戻すと、そうそうお酒を飲むと楽しくなる人が世の中にはいるんですって。
 
 
いや、楽しくなるというか、気持ちよくなるというか、今夜は何センチ甘えよう、みたいな? ともかく、人というのは、お酒を飲むと普段よりちょっと気分が変わるんだそうです。
 
 
言ってみれば、お酒を飲むことで、ちょっと見る景色が変わるという。
 
 
って、そういうと、まるで下駄を履くのと同じじゃあないですか。
 
 
下駄やら、ハイヒールやら、シークレットブーツやらを履くと、あら不思議、いつもより身長が10センチ高くなるわってのと、考えると同じじゃあないですか、ね?
 
もっといえば3Dメガネみたいなもんですよ。映画じゃなく、現実世界で3Dメガネを付けるようなもんですよ。そりゃ前後不覚にもなるし、気持ち悪くなって吐くのも不思議じゃないというか、いやいや、この文章は、べつにお酒を悪く言おうって、そんな話じゃないのです。
 
 
お酒は悪いぞー死ぬぞーっていって、しかしこの壷を買えばなんて、そんな商売をしたいんじゃなくてですね。そんなんより、もう一段めんどくさい「そういう下駄が、実は世の中に溢れているんだなあ」ということを、このごろよく考えるのです。
 
 
 
いわば、その人の感覚を、その人の感覚じゃなくさせるものが。この世界をちょっとでも楽しく見せようとするメガネが、人を正気じゃなくするものが、まあ世の中には溢れてますねと、そう思うのです。
 
 
 
で、なにがいいたのかというと、この下駄ですよ。
 
僕らの目線を数センチ変える下駄を、果たして僕らはどんだけ履いて歩いているのかと。どんだけ素の自分から遠い自分で生きているのかと。そして、もし下駄をすべて脱いだとき、その完璧なシラフな状態で果たして僕らはなにを見るのかと。
 
 
恋愛、仕事、お金、人気、権力、夢、食べ物、物語、音楽、そのほかもろもろろろろ。
 
 
 
もしお酒を止めたら、シラフの僕はこの世界をなんと見るだろうか。
 
この瞬間、すべての下駄を脱ぎ、もし完璧なシラフとなって地に足をつけたら、果たして僕らはこの世界を一体どう言葉に出来るだろうか・・・・・・
 
 
 
ほほほ。想像力があれば、この問題はすごく面白い問題なんだけど、さて、どうでしょうか。想像しがいがないですか。
 
ともかく、より美味い酒を飲めば、より楽しく幸せな人生になるのは確かなんですよね。ほんと、僕もお酒が飲めたら、高田クリニックの院長みたいな人生になれたかもしれないのに! キー! なんて。
 
 
ちなみに、いまこの文章を書いてるそばに、別れ話をしてるぽいカップルがいる。女の子が泣いている。ああ。酔いが醒める。まわりの人たちは、彼女の涙に気づかずに、自分の世界で楽しそうに笑ってる。僕は酔いがまた少し醒めた。そして心の中で、泣いてる彼女にティッシュを渡した。

まさにブログ的な自己顕示欲

身体を調整したら、文章を書く気が起こらなくなった。
 
と同時に、あろうことか、突として絵を描きたくなった。
 
 

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「絵を描きたい」なんて、ここしばらく頭の中にこれっぽちもなかったのに。なのに身体が変わった途端、その身体と一緒に感性も変わったのか、つまりこれが世にいう変態ということなのか、一夜にして人が変わったように僕は絵を描き始めてしまった。
 
 
にも関わらず、身体が心がすでに動いているにも関わらず、なのにまったく、頭はなんてトロくさいことか。
 
 
「えっ、えっ、えっ、なに急に絵なんて描いてるの怖っ!」と、
 
「おまえは漫☆画太郎みたいな絵しか描けないんだからやめとけって!」と、
 
「ほら昔、好きな子への年賀状に絵を描いて送ったら、その絵を見たその子の母親に『あんた呪われてるんじゃない・・・・・・?』って言われたよね」と、
 
「ではご一緒に、はい! トーラウマッ、はい! トーラウマッ、はい! トーラウマッ、はいっ!!」って、この思考の声というか、この全力でモチベーションをへし折る感じというか、僕の心のブレーキってば優秀すぎやしませんか。
 
 
まあともかく、頭というのはそういう働きをするのです。身体が心が動いても「いやまてよ」と行動にブレーキをかけようとする。もしくは身体が心が動かなくても、「あっちに行ったほうが得や!」と計算すれば、仮にそれが地獄の入り口でも、行け行けーい!と行かせてしまう。
 
 
思えば、僕の好きなデヴィッド・フィンチャーの「ドラゴン・タトゥーの女」って映画でもそんなシーンがありましたなあ。
  
主人公はこいつが犯人だというのを感じていて、なのにその犯人の招待を「断るのは失礼かしら」と、行ったら危ないと本能で感じてるのに体裁を気にして行って、そんで死にかけるという。
 
逆に、その主人公の相方の子は“本能全開”な子で、この本能全開の感じが見てて気持ちよくて、けど不器用で見てて苦しくて、ああこの子は天使やなあと見てて恋しちゃうような感じで。
 
そんな理性と本能の対比が面白すぎる映画で・・・・・・つまりいうと、じゃあ人間とは理性たる存在なのか、それとも本能たる存在なのかということなのですよ。
 
 
そういえば、僕の整体の先生がよくこんなことを言っている。
 
「あなたはどこにいる?」
 
それで、ここですって胸のあたりを指さすと「心臓にいるってこと?」って言われ。じゃあここかなと頭を指すと「脳味噌があなたなの?」と言われて。
 
 
で、ふと、あれ? って思う。
 
 
僕は頭だけの存在かと。いや、違う。思考するしないに関わらず僕は息をし、心臓を動かし、熱い血を巡らせてる。もっといえば、思考するしないに関わらずに陰茎はそれが意志を持つかのような僕そのものすぎるじゃないか!
 
そしてそう考えると、指をさすには存在が大きすぎて(※ 陰茎が大きいという訳ではない)、僕は僕を指さすことが出来ないなあと。そう思ったという。
 
 
まあ、そんなわけで、なにを言いたかったか分からないけど、僕の僕は絵を描きたくなったから描くのです。うまいか下手かの判断は、素敵な思考世界の住人たちに任せよう。
 
しかし、僕が描く絵は相変わらずエグみがあって、自分で描いてて吐き気がするのは確かにそう。