「思い出のマーニー」が癒やす“一族の呪い”とは? ネタバレレビュー

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「思い出のマーニー」を見てきたのですが・・・・・・見終わった瞬間、「これ、リアリティのダンスと同じ話じゃん」とボンヤリしてしまいました。

時代は・・・・・・僕はこの言い方が好きなので良く使いますが、時代は、いま“この無意識”を表象しようとどうやら躍起になっているみたいです。だから、同じようなテーマの映画がよく作られる。そして僕ら一人ひとりも、実はそのテーマを無意識に求めている。

なぜなら、それがいまのすべての人にとって必要なテーマでもあるからです。

では、その、いまの時代のテーマとは一体何なのか・・・・・・?

それは・・・・・・家族です。いや、もっと言うと「一族」であり、もうちょっと激しい言い方をすると、それは「一族の呪い」と呼べるものかもしれません。

前にホドロフスキーの話の中で書きましたが、僕たちには両親がいて、その両親にはそれぞれの両親がいるわけです。そして、その一族の関係を根気よく見直してみると、僕らは少なからず両親の・・・・・・もっと言えばその両親、そのまた両親の「影」を受け継いで、その「影」に“取り憑かれて”、いまここにいるのです。

では、それが一体どういうことなのか・・・・・・ということを、「思い出のマーニー」のレビューという形を取って、ここで説明していきたいと思います。もちろん、超ネタバレ。

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「この世には目には見えない魔法の輪がある・・・・・・」

冒頭のシーンで、人とうまく付き合えない杏奈がこんなことを言います。

「輪には内側と外側があって、私は外側の人間・・・・・・。でもそんなのはどうでもいい。私は、私が嫌い」

このシーンを簡単に解釈すると、杏奈はある種の疎外感に苛まれており、「人の輪」に入ることが苦手だと見ることが出来ます。けど、実はこの言葉の持つメッセージはそれだけじゃないのです。するっと聞き流してしまいそうですが、この言葉はそれ以上に、この映画全体のテーマとなる非常に大事なメッセージをいくつも持っています。

ひとつは、すなわち「この世には、魔法の輪が“ある”」ということです。

では、「魔法の輪」とはなんでしょう? 

同好会を「サークル」と呼んだりしますが、「魔法の輪」とは、仲の良い人の集まりや、同じ考えを共有している人たちを、ただ言葉で概念化したもの・・・・・・では、ありません。これは、まるでハリボテなただの言葉ではなく、誰もが“実感”したことがあるだろう、「空気」や「雰囲気」と呼ばれる、あの壁に似た、あの集団を包み込む“見えない力”のことを言っているのです。

つまり、概念ではなく、“見えない実質的な力”として「魔法の輪」がある。

そして・・・・・・この「魔法の輪」は空間だけじゃなく時間をも超えて、集団に、ある特定の人格をもたらす。大きく言えば「日本人」なんて括りは、時間も空間も超えた非常に大きな「魔法の輪」になります。「家族」や「一族」というのも・・・・・・つまり、この実質的な力によって、僕たちは一族の“影”を自らの運命に背負っていまここにいるのです。

他のクラスメイトから外れ、ひとり黙々と絵を描く杏奈に「絵を見せてみろ」と男性の教諭が声をかけます。杏奈は照れながら絵を見せようとしますが・・・・・・ここで騒ぎが起こり、男性の教諭はそちらの方へ行ってしまい、杏奈はまたポツリとひとり取り残されてしまいます。

「私をひとりにしないで・・・・・・」

こんなセリフはありませんが、杏奈はこうした心の叫びを噛み殺します。そして、その行き場のない叫びは人への憎しみとなり、自分への苛立ちとなり、喘息の発作となって杏奈自身を苦しめるのです。

この喘息が杏奈の背負う“影”です。

杏奈はまだ幼い頃に両親に先立たれた過去があり、そのことで「自分が置いて行かれること」に特別な悲しみを持っています。そしてその「置いていかれる悲しみ」は、物語が進むにつれ、ある登場人物もまったく同じ悲しみを抱えていることが分かってきます。

「なんだろう、あのお屋敷・・・・・・。知っている気がする」

療養で訪れた地で、杏奈は地元の人が「湿っ地屋敷」と呼ぶ古い屋敷に強く心を惹かれます。そして七夕のお祭りで、「普通に暮らせますように」と書いた短冊と“青い目”が見つかり「あなたは普通には生きられない。あなたはあなた通りだもの」と地元の子に言われ・・・・・・その場から涙ながらに向かったその屋敷で、杏奈は“目の青い”不思議な女の子に出会います。

「私の名前はマーニー。私の名前は知ってると思ってた」

夢なのか、現実なのか・・・・・・この子は一体何者なのか。 

そうして杏奈はよく分からないままマーニーのことが好きになり、それから満ち潮の時間になるたびにマーニーに会いにいくようになります。そしてあるとき、自分の持つ両親への憎しみをマーニーへ打ち明けると、マーニーも同じように自らの秘密を杏奈へ打ち明けはじめます。

「忙しい両親に屋敷に置いてかれて、屋敷では、ばあやとメイやにいつも虐められているの」

それを聞いた杏奈は「こんな酷い話は聞いたことがない!」と怒り、マーニーを助けたいと思います。そして、マーニーが特別に怖れる「サイロ」へ「私がそばにいるから」と一緒に行くことを提案します。

「あなたがいれば・・・・・・きっと大丈夫」

ここでちょっと想像して貰いたいのですが、もし誰かが、自分が最も怖れる場所でずっとそばにいてくれたら・・・・・・一体それは、どれだけ人の心を温かくするでしょうか? そんな怖ろしいときに「大丈夫だよ」と、ずっとそばで言ってくれる人がいるということが、一体どれだけ人の孤独を溶かすのでしょう?

そうして杏奈は、豪雨の中、サイロでうずくまるマーニーのそばにい続けます。

「大丈夫だよ・・・・・・! 私がそばにいるよマーニー・・・・・・!」

・・・・・・いつのまにか眠っていた杏奈が目を覚ますと、もうそこにはマーニーの姿はどこにもありませんでした。「マーニーどこなの! なんで私を置いていってしまったの?!」

・・・・・・では、マーニーとは一体何なのでしょう。

その後、療養の地に来た育ての母に杏奈は一枚の写真をもらいます。その古い写真には例の湿っ地屋敷が写っており、「杏奈のおばあちゃんが大事にしてた写真で、杏奈は小さいころずっとその写真を握りしめていたのよ」と言われます。杏奈は驚いてその写真を受け取り・・・・・・そして、おもむろに写真を裏返すと、そこにはおばあちゃんの手でこんな言葉が書かれていました。

「わたしの大好きなお家 マーニー」

実はマーニーは、杏奈のおばあちゃんだったのです。

しかし、じゃあどうして少女のマーニーが杏奈のそばに現れたのか・・・・・・また、現れたマーニーが持っていた「置いてかれる悲しみ」と、杏奈の持つ「置いてかれる悲しみ」は、一体どうしてこんなに共通しているものがあるのでしょう? 

更に言えば、マーニーと幼なじみだったという久子さんによれば、マーニーは杏奈の母にあたる自分の娘を、やむを得ない理由から全寮制の学校に入学させました。親から引き離された娘は、そのとき母のマーニーに一体なにを思ったでしょう・・・・・・? 

つまり、マーニーの「置いてかれる悲しみ」は、娘に、そして孫の杏奈に深く遺伝しているのです。そしてこの遺伝の原因こそが、この一族の持つ「魔法の輪」であり、この一族が取り憑かれている“影”になるわけです。

実際、よくよく根気強く見つめると、僕たちは多少なりとも親の“影”を背負って生きています。違う言葉で言うと、親の背負っていた“呪い”を、無意識に、自らも実現させるべく生きているのです。自由だとか、ありのままだとか言う以前に、僕たちはおよそ一族の「魔法の輪」に縛られています。

しかも、親にはその親がおり、その親にはまた親がいるというように・・・・・・この“呪い”は親から偶然受け継ぐレベルの話じゃなく、一族へ、まるでその血に刻まれたもののように根深く働きます。杏奈の目が青いのは、この一族と血を象徴したものなのです。

でも、そうは言っても、この“呪い”も解く方法があるはずです。そして、その“呪い”が“呪い”じゃなくなる様子が、まさにこの映画の結末に描かれています。

このことに関連して、2人が初めて出会ったときにこんな約束を交わすシーンがあります。

「私たちのことは秘密よ、“永久に”」

つまり、この一族の「見えない魔法の輪」は、そう簡単に切れるものじゃないというのです。親子の縁を切れば“呪い”も切れるかといえばそうじゃなく、例え親の顔を知らなくてもこの「魔法の輪」は“永久”にいつまでも続いていく・・・・・・。

ただだからと言って、永久に“呪い”が続くわけではありません。続くのは一族の見えない繋がりであり「魔法の輪」であって、その輪に染みた“呪い”は、いまを生きる僕たちが、一族の過去にどう関わるかによって変えることが出来ます。

どういうことかと言うと、もし杏奈の喘息が“呪い”だとしたら、そこでいくら今の杏奈自身を治療してもこの“呪い”は解けないということです。この“呪い”を解くには、杏奈を越えた一族の過去に杏奈自身が飛び込まなくてはなりません。親やその親と再会し、いまはまだ“呪い”としか見えないものを理解し、受け止め方を変えて“祝福”し、そうしてはじめて“呪い”は“呪い”という姿を変え喘息という現実も変わりうるのです。

「どうして私を置いていってしまったの?! どうして私を裏切ったの?!」

「杏奈お願い。許してくれるって言って!」

「・・・・・・もちろんよ! 許してあげる! あなたが好きよ、マーニー!!」

先に述べた、杏奈のマーニーを助けたいという想いと行動。そして、この杏奈がマーニーに伝えた最後の言葉には、その理解と“祝福”が温かく込められています。

親の友となること。親の親となることで、僕たちはその“呪い”をただ受ける側から“祝福”する側へ変わることが出来るのです。

最後に、杏奈はその後どうなっていくのでしょうか?

育ての母を、「おばさん」じゃなく「母」と言えるようになった杏奈は、それまでの「一族の輪」から、新しい「家族の輪」を受け入れるまでになりました。

僕たちの人生も同じです。一つの輪に、いつまでも繋がれててはそれは“呪い”と同じなのです。僕たちは輪に振り回されるだけじゃありません。新しい輪と出会えるし、永久に消えない輪に自分の色を付け足すことも出来る。

人生とは、消えない輪に繋がれつつ、新しい繋がりと出会うことです。

それにただ呪われるのか、それとも祝福するのか・・・・・・僕たちの中に過去が生きるのではなく、僕たちが過去を生きる。そうして新しい未来は生まれていくのです。