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にわか「悟り」の小っぽけな僕と神秘学の出会い

神秘学

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その頃の僕を知ってる人は少ないと思いますけど、22歳になったばかりの僕のあいさつは「悟りを開いちゃいました」というものでした。

「どういう悟りを見たのかというと、この宇宙には『白』と『黒』というものがあってですね。例えるなら、右手が『白』なら左手が『黒』という、いかにもバランスを取るような形で宇宙があるわけですが・・・・・・ただ、この『白』と『黒』には、ちょうどその『間(あいだ)』というのが存在するんですよ。『白と黒の間』ってことなんですが、ちょっと質問したいのですが、一体その『間』にはなにがあると思います?」

「そりゃ『白』と『黒』だから・・・・・・その中間は『グレー(灰色)』なんじゃないの?」

「ああ、そうですよね!! 僕も、その世界を初めて見たときに『グレー』があると思ってたんです! きっと『グレー』がある、『カオス』がそこにあるのだろう・・・・・・なんて、そう思いながら意識を集中させて、『白と黒の間』をいざ見つめたらですね・・・・・・。

これが、驚いたことに『グレー』なんてなかったんです。
『グレー』じゃなくて・・・・・・。そこには『0』があったんです・・・・・。

『白と黒の間』には、『0』があるんですよ」

これが当時、頻繁に神秘体験らしきをしていた僕の『悟り』の内容です。
いま思えば、事故のようなものです。出来上がりを食べたという感じで、作ったという感じではない。到達したというよりは、なにかの弾みで垣間見た世界。
確かにこの体験を期に、僕の死生観やら、この世界にうつるものが一変しはしました。しかし、思考がそこに追いつかなかった。魂は一瞬でもだいぶ先へと行ってしまったのに、この思考は、この自我は、まるで羊のようにのんびりしてて、遙か先にいった魂を僕は追いかけなくてはなりませんでした。

いくら体験をしても、思考が追いつこうとしない限り、その体験を真に理解することは出来ないと思います。たとえるなら催眠術を例にとると分かりやすいのですが、「催眠術にかかる」のは催眠やトランス状態が何かも分からずとも出来るわけです。けど、「催眠術をかける」のも「かけられた催眠術を解く」にも、そこには「能動的なプロセス」こと思考の光が必要になってきます。「自覚」が必要になってきます。

なので、体験だけというのも、またそれも夢みたいなもので、そこに思考という意識の光が射さないことには、夢が迷いをもたらすだけになってしまう。夢遊病を作ってしまう。

そして、僕はそれがどうしても嫌だったわけです。世の中には、そんな夢遊病のような人たちがたくさんいます。催眠術にかかっている人が、さらに人を催眠術にかけようとしてるなんて、まあザラです。
おそらく僕にも夢遊病な時期はありました。身体をキツネに乗っ取られることはなかったけど、でも、フラフラとあっちの世界が妙に近かった時期があったのです。けど、そんな自分がなんとも嫌だった。自分を幻の衣で覆い隠すことだけは、死んでもしたくなかった。

この頃から僕は、催眠療法家であり、セラピストの「石井裕之」という先生のもとで潜在意識についてを学びはじめます。現在でも月に一度は、石井先生の勉強会に参加してるのですが、ここで僕は計り知れない基盤を得ます。ここで学んだトレーニングを続けたことで、夢を思考化(意識化)することが出来るようになります。

そして、お遍路にも行って、まるで肉体的な修行のようなものもはじめます。特にお遍路は、魂を取り戻したり、魂に追いつくには持って来いのピクニックで、これらを期に、僕の思考(意識)は大きく広がり、あのときの魂の軌跡についに思考が足跡をつけはじめました。

その後も、社会生活の中でじわじわと思考は広がり続けるわけですが・・・・・・。影響を受けている人や、大好きな人をあげだしたらキリがないんですが、そんな中、またある人に僕は出会うのです。

ルドルフ・シュタイナー研究家の「高橋巌」という方です。

初めて講座に参加したとき、自己紹介をする僕に、先生は独特の口調でこう言いました。

「勉強させてください・・・・・・って言われましたが、私もまだまだ勉強中なんですよね。なので、一緒に勉強していきましょう」

僕と年が50近くも離れているとは思えない気さくな姿勢と、その独特な雰囲気に、僕は沈黙のような衝撃を受けました。「こんな人がいるのか」と、自分の中の人間観がまた新たに書き換えられるようでした。

そして、そこでの学びで、僕の思考はまた大きく変容をします。

先日の講座の終わり、疑問のあった僕は、帰り支度をする先生に一つ質問をしました。講座の内容を確認するための質問だったのですが、その質問に、先生はじっと僕の目を見つめてこう答えたのです。

「私は、そういうことだと思っています」

僕はこの時、まるで身体が「青い痺れ」に包まれるような衝撃を受けました。「えええ!」と思わず声に出してしまいそうなくらい、それくらい、この答えは僕の魂を揺るがせました。

シュタイナーの本を読むとしたとき、僕が読んだ内容と、その先生が勉強会で読み解く内容には、それこそ天と地のような開きがあるのです。先生の読み方を聞いて、「ここに、こんなすごいことが書かれてたのか!!」と、一体どれだけのウロコが目からボロボロ剥がれたことか。
僕からみると、「先生の読み解いたもの」は「僕の読んだもの」に比べ、明らかに強い力が働かない限りは出てこないものです。畏ろしいほどの「思考の力」を予感させるものがあります。

なのに、先生はこう言うのです。

「・・・・・・思っています」

つまり、先生は「これが正解だ」と決して言わないのです。決して自らが「答え」にならない。「答え」とはまったく違うところに先生はいる。

そして、その瞬間、それまで求めていたものがこの身に迫るような気がしました。「透明な思考の力」を目の当たりにしたのです。どういうことかというと、仮にそれが「誤読」だったとしても、その「誤り」には実はたいして意味がない。「誤り」だとか、それが「正しい」かどうかなんてのは、その「力」の前には幻のように全く意味がないのです。

意味があるのは、「正しい」なんて概念をとうてい超越した「思考の力」そのもの。純粋にまで研ぎ澄まされた、まるでそれ自体が生き物のようにまでなった「思考の力」そのものにあるのです。


そしていま僕は、体験をようやく越え始めたところにいます。22歳の僕には暗くて見えなかった“間”の道が、育ちはじめた思考の力、意識の光によって、はるか深くまで見出しはじめている。生まれ出しはじめています。

ああ。だから、いまになって思うのです。あの体験をして良かったと。