「クラウド・アトラス」ネタバレレビュー。“この心の声が自分の声だと本当に言い切れるのか?”

 

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あなたは悪魔に会ったことがありますか?

 僕はあります。何度か見たことがあります。幽霊ではありません。悪魔です。

 驚くべきことは、悪魔はあまり自分を出すことはしないのです。身をひそめては、この映画のようにゴチョゴチョと人の耳に何かを吹き込む。「こうしたほうがいい」と、その人の声になりきり、ゆっくりと心の中に入り込んでくるのです。

 ところであなたは、自分のアタマに浮かぶ考えが、すべて自分の考えだと胸を張って言えますか・・・・・・? それはなぜ? 僕は一度、自分の考えの出所を集中して探究したことがあるのですが、そのとき分かったのは、「純粋な自分の声は、自分以外のさまざまな声に覆われ分からなくなっている」ということでした。

「じゃあ、自分以外の声とは何だ?」って言うと、実はそのほとんどが外から入ってくる「何者かの声」なんです。そして、その声の中には悪魔の声ももちろんある。嘘だと思うのなら、ぜひ自分の声を探究してください。深く深く突き詰めていくと、それが自分の「声」じゃないことに気付くはずです。

 僕はこの映画の悪魔の描写に、寒気が走るほどのリアルさを感じました。実際、あのような感じなのです。

悪魔が悪魔として分かりやすく出るのは、2321年の文明が滅びたあとの話だけですが、実はすべてのストーリーに悪魔の存在があります。それが、ヒューゴ・ウィービングが各ストーリーで演じる役に“ある共通の性格”をもって投影されていた訳なのですが、ではこの悪魔が一体どんな性格かというと、それはセリフ中にキーワードのように何度も出てきた「弱肉強食」。
 もっと言えば、「弱い者」と「強い者」というように、人と人とを、階級やら生まれで差別させる、それがこの映画の悪魔の性格であり「力」なのです。

 そして、それが行きつく先として、最後には「共食い」というものが現れる。
 実際、いま僕らが生きているこの世の中も、さすがに食人は無いでしょうが、でも「共食い」が無いとは言い切れないのではないでしょうか?
 臓器移植で起こる事件もあれば、超資本主義の経済も、誰かを食い物にして成り立つものがあまりに多くはないですか?

 マザーテレサは「愛の反対は、無関心」と言いましたが、無関心は「相手と自分は関わりがない」という考えから生まれてきます。つまり、人間を同じ血の通う友としてではなく、自分とはちがう、感情のない「モノ」と同じように見るということです。「モノ」だから、その肉は利用できるし、殺すことも、自由を奪うことも出来る。
 悪魔は、人の不安と恐怖を巧みに操ります。あなたも怯えた犬が仲間にかみつくのを何かで見たことがあるかもしれませんが、悪魔もそれと似た感情を呼び起こすように「やらなければ、やられる」と人の不安にささやきつづけます。
 そうやって、人を「お金」や「階級」に縛り付けるのです。そして人の心から、血のかよった精神や、魂の存在を忘れさせようとするのです。

 一体、魂とはなんでしょうか?

 それは僕たちの中にあるものです。しかし、それが分からない。「声」にばかり気をとられ、人間は魂を忘れ、「輪廻」を忘れ・・・・・・。

 「じゃあ、魂を思い出すには一体どうしたらいいのか…?」

 それが、この映画のもう一つのテーマだと思います。
 つまり「自分の魂を取り戻す」ということです。

 この映画の登場人物たちは、なにかしらの悪魔的な圧力を受けながらの日々を暮らしています。そして怖いことに、もうそれが当たり前だと思ってしまっています。こう生きるより他は無いのだと、自分を守るためだと魂を殺しながら生きている訳です。

 しかし、どんなに魂が干からびていようと、あることをきっかけに、突然、魂が目覚めることがあります。この映画だけの話じゃなく、僕たちの人生の中でも、それはある時、突然と起こるのです。

 それが、「出会い」なのです。

 前世や来世で約束された出会い。
 それによって、僕らは自分一人では決して思いだせなかったものを、前世に育んだ愛によって思い出すことが出来るのです。本当の自分自身を、悪魔の力に囚われない愛や理想を、魂が思い出すのです。

 ただ、思い出せたとしても、それで「めでたし、めでたし」とはなりません。ここで僕たちはひとつの決断にせまられます。「今まで通りでいいのか、それとも魂を取り戻すための戦いを挑むか・・・・・・」という決断です。

 仮に戦いを挑み、運が味方につき勝利をしたとしても、悪魔はすぐに次なる戦いをしかけてくることでしょう。悪魔は消えることはありません。彼らと戦うということは、永遠に終わることのない果てしない戦いに挑むということなのです。

 「戦いを挑んだ所で、大海に一滴の雫を投じるようなものだ」
 「そんなことをするために人生を投げ捨てていいのか?」

 そう彼らは言います。流れに逆らうな、無意味なことをするなと。しかし、一滴の雫は本当に無意味なものなのでしょうか?

 一滴の雫のような、愛する人とのただ一度の出会いは、そこから永遠を誓うほどの愛を教えてくれます。
 一滴の雫のような、70億人の中のただの1人は、いてもいなくても良いような存在では決してありません。

 僕たちは、その一滴に宿るものを思い出さなくてはいけません。その一滴に、大きさではなく、眩しいくらいの輝き見出さなくてはなりません。どんな人が持つ一滴だって、無意味な一滴は、ただのひとつもないのですから