考え尽くされた気もする、愛について

愛ってなんなんでしょうね。

ちなみに僕は「愛とは忍耐だ!」と言って、よく無視されます。

僕ごときが愛なんて語るのが、そもそもの諸悪の根元なのかもしれませんが・・・・・・ともかく僕は、愛とは「忍耐」だと思うのです。

漢字で書くと、「忍ぶ」に「耐える」で「忍耐」です。

「忍耐」と聞くと、小学生の頃に、廊下で数時間も正座させられた記憶が蘇る人もいるでしょうけど、でもその言葉は、本当はすごく美しいものだと思います。

言ってしまえば、「耐える」姿を「忍ばす」わけですから。

「僕は耐えてて偉いでしょ」なんて人にアピールするんじゃなく、「がんばる僕を愛して」というでもなく、「耐える」姿を人に気づかせないのが「忍耐」なんです。

さらに言うと、「耐える」は「こらえる」という意味です。つまり、ブレないということです。

ただ人知れず、ブレずにここに在りつづける。
ただ人知れず、ブレずに相手の幸せを想い続ける。

これが「忍耐」という言葉の意味で、僕が「愛」について思うことです。
 
 
 
そういえば前に、僕の尊敬する人が「愛とは、自分以上に相手のことを大事にすること」と言ってるのを聞きました。

そのとき僕は、これを言った人が偉い先生というのもあり、ちょっと遠慮しながらも

「どうして、自分以上に相手を大事にしてると分かるんですか?」

と質問をしました。

だって、人間には、ズルさというものが付き物じゃないですか。相手を大事にしてると言いつつ、実はその先にある“自分の得”を見てるのが人間だったりするわけです。人に親切をしようといい、その裏で親切をした人に好意をもたれたいと思ってるのが人間なんです。

すると、先生はこう答えました。

「それは簡単なことですね。大事にしてるかは分からなくても、その人を本気で愛してるかどうかは分かるでしょう」

僕は、一瞬、止まりました。

つまり、「本気でなにかを愛してたなら、必然と、それは自分より大事な存在になる」と先生は答えたのです。

そして・・・・・・また、先生はこう付け加えました。

「愛するものに、人生でひとつでも出会えたなら、それだけでこの人生は大成功だと思います」

 
・・・・・・さて、僕はどうだろう。

先ほど僕が書いたことは、愛の真似事に過ぎないのでしょうか。

もしかしたら、そうかもしれません。

ただ、いまは真似事でも、信じてそれを続けていたら・・・・・・

いつしか、本当に「自分以上に相手を大切にできる」ことが出来るようになるかもしれない。

そうなったら、この世界に与えられるひとつの愛だけじゃなく、自らも愛を生み出すことが出来るかもしれない。

それが、僕の思う愛です。