自信というのは「憑依」である。自分の自信に振り回される人達。

「自信」というのは「憑依」と似ている。

ことを行い、うまくいき、自信がつく。

“つく”だなんて、なにが、どこに、どうやって一体ついているのか?

それをよくよく考えていくと、なにやら「自信」というのは怪しいものだと思えてくる。

一般的に、自信は人に認められるなどして“つく”という。
社会に「あんたはすごい」と認められるなどをして、自信は“つく”のだという。

そんなことを聞くと、「なんだ、ついているのは“人の夢”じゃないか」と思えてくる。

「あんなふうになりたい」とか、
「あんなものが欲しい」とか、
「存在に感謝です」だなんてのは気持ち悪いくらいだけど、

人や社会の「夢」を背負わされることが、一般的な「自信」の正体なんじゃないかと、考えれば考えるほど思えてくる。

たとえるなら、小さな赤ちゃんが、親に褒められて自信をつける。

つまり、親の夢や期待は、赤ちゃんの自信そのものであり、成長への栄養そのものというわけだ。

そして、赤ちゃんは成長し、社会を知り始める。社会を知り始めると、赤ちゃんは夢を覚える。この世界に欲しいものを見つけ、したいことを見つけ、なりたい人を見つける。

この無限に広がる世界から自分の夢を注げる場所を見つけ、行動し、ときに失敗し、ときに成功して、そうやって自信をつけ赤ちゃんは成長していく。

・・・・・・しかし、ときにおかしなことが起こる。

親の見る夢に、なにか変なものが混ざってたりすると、赤ちゃんはその親の夢に・・・・・・いわば自分の意志じゃなく「ついている自信」によって動かされるということが起きてくる。

つまり、自分がつけたはずの自信に、逆にコントロールされるということが起こる。

そうなると、まさに「憑依」で、赤ちゃんはもはや自分を見失ってしまう。にせものの自信ばかりついて、自分の夢が失われてしまうのである。

ただこれは、親の夢だけじゃなく、実はすべての一般的な「自信」にも言えるのかもしれない。

どういうことかというと、もし「自分には自信がある」と言えるひとがいたら、その人はもしかしたら「その自信に動かされている」可能性があるということである。

芸能人が人の期待に応えざるを得ないように、すべての人は、人の期待になにかしら動かされている。

いや、人の期待というより、「自らの持つ自信」に動かされているのである。

さらに言えば、もし「ついた自信」が、そのまま抵抗なく自分に染み込んでいくことになれば、それはもはや一つの「人格」となっていく。自分の中に、本当の自分を隠す、もう一人の別の人格が現れるのだ。

もちろん、そうなったときには遅くて、そうなったことに気づきもしない。この人は、すっかり社会性の生き物になってしまったのだ。さようなら・・・・・・。