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自信というの「憑依」である。その2。催眠術師は、人の「自信」にはたらきかけ、人を操る。

 

催眠術師は、人の「自信」にはたらきかけ、人を操る。

 

僕は過去、催眠術セミナーのアシスタントをしていたことがある。いま思えば大変で、僕が催眠にかかる(本当は、かかってあげてるんだけど)と見るや、誰も見てないところで「あなたは私のいいなりになる」と急に言ってくる人がいたりして、人間不信になったりしたことがある。

 

そのときは、「催眠術をかける側」と「催眠術にかかる側」と、もうなにがなんだか分かんないくらい多くの経験させていただいたのだけど、きっとそんな経験もあって、僕は普通の人よりは多くの「空気」を判別できるようになったと思っている。

 

先日、明治神宮の前の道で、金髪ロン毛な男性がマジックショーをしているのを見つけた。時間があったので、僕も人だかりに入ってそのショーを見ていると、ふと金髪の彼が「実は僕は催眠術師でもありまして・・・・・・」と、突然その場の人だかり相手に「ストリート・ショー催眠」をはじめた。

僕は個人相手の催眠は腐るほど見てきたが、通行人向けのショー催眠は初めてだったので、「これはチャンスだ・・・・・・!」と、瞬時に目の色を変え、そこに現れる真実を見極めようにした。

そして・・・・・・そこにいた女子高生やサラリーマンが催眠にかかるのを見て、またその場に巻き起こっている「空気」を見て、ふと衝撃的にあることを僕は理解した。

 

「催眠とはなにか?」というのが、
「一体、なにがどうなって人は操られるのか」というのが、

 

もっといえば、世の中の群集心理や、人が自分から誰かに操られるその根本が、「ああ、そういうことか」と衝撃的に分かった。

 

その秘密が、冒頭に書いたことである。

 

つまり、催眠術師は、人の「自信」を操る。

 

前回の記事にそのあたりをまとめて書いたのだけど、一般的な「自信」は、人に認められることによって生まれる。人に、組織に、社会に認められることによって、人は「自信」を“つける”。

 

じゃあ、その“つける”のはなにかというと、人の持つ「夢」や「期待」がそれである。いわば、「人の期待」と「私の自信」は、角度が違えばその呼び方が変わるというようなもので、実は“ついた”ものとして「期待」も「自信」も同じ存在なのだ。「私は自信がある」は「私は期待を背負っている」と同じなのだ。

 

催眠術師は、ここにはたらきかける。

 

どういうことかというと、催眠術師は「期待」をするのである。

 

それはもう、猛烈に「期待」をするのである。「こうなるのが当たり前だ」と、「こうならないのはおかしいよ」と、その場に猛烈な「期待感の空気」を作り出すのである。

 

すると、おかしなことに、社会性の生き物はそれに反応せずにはいられない。分かりやすくいうと、「自信が欲しい人」ほど、もっと言えば「自信をむさぼる人」ほど、もうそこに自分はいなくなる。

 

催眠術師の、操り糸のついたエサ(期待)を飲み込み、あわれ糸の赴くまま、自ら劇場の主役のように振る舞うのである。せっかくの自信を捨てるわけにはいかないので、そうせざるを得ないのである。

 

そして、もちろんこれは、催眠術の舞台の上の話だけではない。

 

親の期待に子が踊るのも、変な宗教に「わたしは特別なんだ」と入れ込むのも、ボランティアなどで「参加しないことに罪悪感」を覚えるのも、みんな、何者かが人の自信を操ることで起こる。もしくは、自らの「自信」に操られることによって起こる。

 

社会の常識も、一種のイデオロギーも、成功という価値観も、実はこれらも何者かの「期待」であり、人がその「期待」に沿って「自信」をつけると、これまたその「自信」に操られるわけである。まるで寄生虫に宿主が操られるように。

 

・・・・・・ここまで書いてなんだが、「自信」に操られるのは、この社会に生きてる以上、避けられることではないかもしれない。

 

もしくは、「操られてなにが悪いの?」という人もいるかもしれない。

 

僕はそんな人を見ると「それは家畜でもいいってことですよ」などと心の中で思ってしまう。けど、実際は社会性を発揮して「もちろん、それでいいならいいですよ」なんて、心にもないことを言ってしまう。これも、言ってみれば「社会の期待という自信」を僕がつけているから言えるのだが・・・・・・

 

ここに一つヒントがあると思う。

 

どうしたら操られずにすむか、つまり「自覚」をすればいいのである。

 

「こうするのが当たり前」という空気の中から、「いや、本当にそうなのか」と一瞬でもその空気から飛び出ると、この世の催眠術師の連中に操られることを避けることが出来る。

 

けど、ずっぽしこの空気に入り込んでいると、そんなのはもう無理だ。「自信」が人格を作ってしまったら、もうなんらかの手がその空気を遮断するのを期待するしかない。

 

あと、もう一つ「空気」に操られないヒントをいうと、それは「自信を欲しがるのを止める」ことだ。

 

「自信がつく」のはいいけど、「自信を欲しがる」と、あっという間に例の操り糸に引っかかる。「自信を欲しがる」のは一種の病かもしれない。

 

・・・・・・で、ここまで書いたけど、読んだ人の中にはもしかしたら「あなたのいう自信は、私の思う自信じゃない」と思ってる人もいるかもしれない。

 

次回は、そのことについて書きたい。

 

というか、本当はそれが書きたくて、この「自信」の話を書き始めた。

実はこの数日前に「これが、本当の自信だ!」と、いや、見つけたのです。