自信というのは「憑依」である。その3。自信に操られない生き方のすすめ。

「赤ちゃんになれ!」

 

これが、僕が昔「どうやったら自信ってつくの?」と人に相談を受けたときに答えたことだ。ただ実際は、こんなことは口に出すまで思いもしなかった。思いもせず、ただ出るに任せて言ってみたら、あとから考えても「僕って、いいこと言うなあ」と少し感心するようなことを言っていたのだ。

そしてこのことが、それからしばらく、僕の「僕にとっての自信とは」という話になった。こういう話である。
 
 
「“これをしなければいけない”とか“こうじゃなきゃいけない”という声が人にはある。
 そして、その“これをしなきゃいけない”を達成していくことで自信がつくと、普通はそう考える。お金がないと、家がないと、恋人がいないとと、その声に応えることで、人からも自分からも私は認められると、そう考える。

 けど、本当は違うんだ。

 そうやってつけた自信は“化粧の上塗り”みたいなもんで、実は、つければつけるほど素顔への不安を大きくする。化粧がうまくなればなるほど、『素顔で外に出られない』ということが起こってくるんだ。

 そしてそうなると、その巨大化した不安を隠すために、『もっともっと』と、より巨大な自信をつけなきゃバランスがとれなくなってくる。より多くの仕事をしたり、より多くの服を買ったり、より多くの苦労をしないと、ふと空虚に襲われたりと自分を保てなくなってくる」
 
 
・・・・・・こうなると、人はもう完全に「自信」の言いなりである。言い方を変えると、「自信(プライド)・モンスター」の誕生である。

このモンスターが恐ろしいのは、自分から人の期待を食い物にするところにある。占い師なんかに多いが、人の不安を煽るなんてのはまさにモンスターの所行である。健康食品、放射能地震・・・・・・これらを、やたら上から目線で、まるで狼少年のように騒ぎ立て、人の注目を、「イイネ」を一つでも多く食らおうとするのである。

 

もはや「自信」がないと、道を歩けないのだ。そのために、人の期待をかき集め、失うことを異常に恐れることになるのである。

 

「じゃあ、そうならない自信を得るには、一体どうしたらいいのか?」

 

ここで冒頭の話に戻る。
 
「逆に、この世界でもっとも自信に溢れる存在はなんだろう?」

・・・・・・総理大臣?
・・・・・・ダライ・ラマ
・・・・・・村上春樹
 
 
「・・・・・・僕は“赤ちゃん”だと思う。

 どういうことかというと、赤ちゃんは放っとくと、どんな危ないことをするか分かったもんじゃない。クレヨンを食べたり、食べ物を投げ捨てたり、神社でうんこしたり・・・・・・赤ちゃんには怖いものがない。タブーがない。

 なぜなら、“しなければならない”が赤ちゃんにはないんだ。つまり、不安がない。“しなければならない”は不安を作るもとだけど、赤ちゃんにはそれがない。

 そして、不安がなければ、自信も必要ないんだ。

 人は不安だから、それを乗り越える特別な自信が欲しくなる。けど、そもそも不安がなければ・・・・・・なんでも大丈夫。回り道は必要ない。なんでもオッケーなんだよ。

 だから化粧を洗い落とすんだ。体にこびりついた“しなければならない”を、一つずつ落としていくんだ。まるで分厚い鎧を一枚一枚はがすように。よく見せるための「自信」をぜんぶ落とすんだ。

 どんどん落としていくと、いつか分厚い鎧の下になにかを見る。それは、つるつるの、すっぽんぽんの・・・・・・魂となんら違いない自分の姿だ。なんにも期待されてない、なんの恥も迷いもない本当の自分だ。

 きっとそれこそが本当の自信なんだと思う。

 自分という存在への確信をもつこと、それが本当の自信なんだ」
 
 
・・・・・・こういう話なのだが、しかし、ここから数年たって思うが、この自信は実は危うい。

たしかに理屈では「その通りだなあ」なんて思いもするが、実際どん底に沈むと、“こうしなければいけない”が無いばかりに、「なにもしなくてもオッケー」と、生への感覚がズルズルになるのである。

「生きるのもいいけど、死ぬのもいい」と、そんな危うさがあるのだ。

事実、僕は約2年ほど前に「そうだ、どん底に落ちみよう」と、ふと思い立ち、そこから半年で底辺に、また次の半年でどん底に落ちるという旅路を経験した。シュタイナーという人が「人は奈落に落ちて、はじめて神を知る」とか言ってるもんだから「じゃあやってみよう」とやったら、1年で玉置浩二の「田園」を聞いては号泣する自分になっていた。

 

「ああ、神って玉置浩二のことだったんだ・・・・・・」

 

ってのは半分嘘だけど、どん底に落ちて、僕は人生で最高の快楽は死なのだと気づいた。“こうしなければならない”の先には“なんでもいい”という快楽主義があり、快楽主義の行きつく先にはタナトス(死)が待っているのである。

 

これは周りを見渡してみると分かる。「なんでも大丈夫」と言ってる人たちに限って、どこかいつ死んでもおかしくない予感が漂っている。ああ、きっと僕もそう思われてる。

まあ、そんなことに気づき、僕はいま一度考えを改めることにした。
 
 
「生きるためには、やはり人の夢や期待が必要なのか?」
 
 
人間は「関係性の生き物」である。人や、社会や、世界と関係を結んでいくことは「生きることそのもの」と言っていいくらいだ。

 

他人が期待するように生きる。社会や環境の望むように振る舞う。こうするのは、関係性を築く上ですごく大事なことかもしれない。社会的な地位の多くは、人が、より社会に迎合することによってもたらされる。つまり、社会に頭を垂れることで、人は「生きていける」と自信をつける。

しかし、その逆もある。

 

社会に頭を垂れることを拒否する。社会に迎合するのではなく、社会のほうに迎合させる。自らの持つ空気感で社会に語りかけ、人に好きといわれて自信をつけるじゃなく、自分から人に好きだという。こちらから関係性を生み出し、社会に新しい夢を作り出す。

また、そのときの自信は、まず自分で自分に期待することからはじまる。誰にも認められない自分に根拠なく期待をし、一人もくもくと自己ベストを更新しては、人に依らない自作の自信をつけはじめる。まるで、自分銀行の預金残高に、自分でゼロをつけ足していくように。

そして、ふと、こう思う。

 

「この自分銀行の通貨が、社会でも流通したらなあ」

 

もしかすると、誰かがその通貨に価値を認めるときが来るかもしれない。社会が価値を認め、自分通貨が流通し、世界が変わるなんてことが起こることもあるかもしれない。

 

こうなったら、普通はそれでハッピーエンドである。

 

けど、映画と違って、そこで生きることは終わらない。流通したとたん、その通貨は社会そのものとなり、それまでの自分の預金は、人がよせる期待と夢そのものとなってしまう。

そして、たいていの人が、ここで銀行家になる。いわゆる「ポジション」を獲得し、「期待通りに造幣すりゃいいんでしょ」と、人の期待に応えるだけの、自らの自信に生かされるだけの人になっていく。ここが本当の終わりである。

 

じゃあ、銀行家にならない人はどうか。銀行家にならないとなると、これまでの自分銀行の預金を、封鎖か破棄しなければならない。関係性の出来た社会と馴れ合うことをせず、新たな自分銀行を設立し、誰も見たことない夢をもう一度イチから作り出すのである。

 

こうなると、作っては壊し、作っては壊しと、まるで無限ループのように見えるかもしれない。

けど、生きるとは、ひとつの関係性を作ったら終わりというものではない。作っては、また新しい関係性を作りつづける。関係性の輪に閉じこめられるのではなく、常に旅人のようであり続ける。過去や未来、さまざまな人や環境にとらわれない「点のような存在」であり続ける。

 

生きるということは、もしかしたら預金に頼らないことかもしれない。

が、それが出来る人は少ない。
 
 
「・・・・・・じゃあ、一体どうしたらいいのか?」
 
 
答えはない。きっと、自信も生き方も人それぞれだ。僕は軽蔑するが、自信に操られる生き方も、それはそれで幸せなのかもしれない。

 

ただ、最後にひとつ、僕が分かったことを書く。もしかしたら、そうすることで、なにかが変わるかもしれないことだ。ここまで長かったので、そのことをさっぱり書いてこの文を終わりにする。

いままで書いた自信は、どれも自分の外に足を伸ばそうとする自信である。言ってみれば、他者(もしくは自分の夢)と自分の距離を測ろうとする自信だ。他者と自分の間にある隙間を埋める自信だ。

 

それを、やめるのである。

 

他者を忘れ、そして、自分のみを測ろうとするのである。

僕らは目をつぶったとき、どこが右足の中指なのか、薬指なのかが分からない。人に「この指は?」と触れられても分からないかもしれない。もしかしたら自分の身長も、いまの体温も、大きな声を出したらどこまで届くかも分からない。

 

線を引けばどこまで引けるのか、美しいものをどれだけ素直に見れるのか、友人をどれだけ深く愛せるのかも分からない。

 

それを、ひとつずつ測っていくのである。環境を忘れ、あくまで自分を測り続けるのである。一度測ったら、つぎも同じとは限らない。

普通、人は自らを測りにかけるのを恐れる。自らを知るのを恐れる。この恐れは超えなければならない。

 

そうすれば自然に、人は回り道をせず、この世界とより確かな関係性を作っていく。自分との距離が縮まり、勝手にたくさんの世界とも身近になる。

自分を知るのだ。自分の内面で行動を測りつづけるのだ。まず目を閉じて、自分が思ったように指を動かせてるか知るのだ。そこに道がある。