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ブッダは瞑想なんかよりずっと大切なことを教えてくれた

 

実はブッダは、瞑想なんかしていないんじゃないか。

 

まえの自信がどうこうの記事の最後に「自分を測る」ということを書いたのですが、書きながら「ああ、これってヴィパッサナーのことかもしれない」と、ふと自分で気づきました。

 

(分からない人のために書くと、ヴィパッサナーとは「ブッダが悟りを開いた瞑想法」と言われてるものです。ヴィパッサナー瞑想で検索すると、いまでは日本でも10日間コースから参加することが出来ます)

 

ヴィパッサナーという言葉は、パーリ語で「物事をあるがままに見る」や「分けて見る」といった、そんな意味があるそうです。けど本当は、ただの見るというより「自分を測る」のニュアンスの方が合ってるのではないかと、書いててそう思ったのです。

 

もっと言えば、「いまのヴィパッサナー瞑想は、実は間違ってるのではないか?」と言いたいわけです。

 

というのも、ブッダが「瞑想」と「非瞑想」とを分けていたというのに、僕はなにか疑問です。

 

「人がよりよく生きるには、深い瞑想体験が必要だ・・・・・・」みたいなことを言う人が最近増えてきましたけど、逆に言うと、「本当にそんな面倒なことしないと、人はよりよく生きることが出来ないのか?」と僕は思ってしまうのです。

 

本当は、もっとすごく簡単なんじゃないか?

 

というか、よく生きること、幸せに生きることのほうが、実はめちゃくちゃ簡単なんじゃないか??

 

悟るのは難しいとか、瞑想しましょうとか叫ぶ人は、実はそれを難しいように見せて授業料(エネルギー)を貪りたいだけなんじゃないか?

 

寺なんかに行くと、瞑想しているブッダの像がドーンとたくさん並んでいますが・・・・・・これらも、あとで「仏教」って言葉を作った人らが、ブッダの教えを「宗教」にするため、「ブッダは、ほかの誰にも出来ないような特別な瞑想が出来たんですよ」と箔をつけるために作った、嘘の固まりなんじゃないか?

 

本当のブッダは、実は瞑想なんかしてないんじゃないか?

 

実際、「スッタニパーダ」や「ダンマパダ」といった、ブッダの生の言葉を記録したという初期の教典には「瞑想がどうのこうの」なんて記述は、ほぼ皆無と言っていいくらいありません。

 

むしろ書いているのは、それこそタモリさんみたいな「ひとりで生きろ」とか、「悪いことをやめて、善いことをしよう」とか、まるで幼稚園で教わるような当たり前のことばかり。

 

また「いまのヴィパッサナーは嘘なのでは」と思ってから、僕は、ブッダがヴィパッサナーを説明しているという「大念処経」という仏典も読みました。そして、それに似た「安般念経」という仏典も読みましたが、ここでも、ちまたで言われるヴィパッサナーとまったく違うことが実は書かれていました。引用すると、こうです。

 

「たとえば熟練した職人は、あるものを長く引っ張るときは“私は長く引っ張る”と知ります。また、短く引っ張るときは“私は短く引っ張る”と知ります。そのように君たちも、長く息を吐くときは“長く息をはいている”と知り、短く息を吐くときは“短く息を吐いている”と知りなさい。

 

 そして、“私は全身を感知して入息しよう”と学び、そうして自分の内の身、外の身を観つづけて住みなさい。そうするといつか“身がある”というのが分かってきます。それが分かった人は、他者に依存することがなくなります。執着することもなくなります。

 

 そうなるために君たちは、自分の身を、その身でいつも観つづけて住みなさい」

 

・・・・・・つまり“身がある”ということを知れというわけです。もっと言えば“この身のみで完全である”と知れというわけです。よそに宝があるのでなく、自らを知ることこそが宝だと「常に、そう念じて生きよ」とブッダはそんなことを言ってるのです。

 

きっとヴィパッサナーとは「特殊な瞑想法」じゃないんです。本当は、一言で簡単に言えるような「生きかた」そのものなんじゃないでしょうか。
 
 
僕の好きな物語に、ブッダのこんな話があります。

 

あるときブッダがガンジス川のほとりを歩いていると、それを見つけたサドゥー(行者)が呼び止め、ブッダにこんなことを言いました。

 

「おいブッダ野郎。おまえは悟りを開いたとかなんとか言ってるが、川の上は歩けるのか? おれは歩けるぞ! 何十年も瞑想して、いまでは向こう岸まで川の上を歩いていける。お前はどうだ? 出来るもんならやってみろ!」

 

それを聞いて、ブッダは言いました。

 

「ああ、なんて無駄なことを。川の向こう岸になら、渡し守にコイン一枚渡せばいつだって船で行けたのに・・・・・・」

 

ブッダは、そんな当たり前のことをいうのです。回り道をせず、どうしたら人が幸せになれるのかを、とてもシンプルに考えるのです。

 

まるでタモリが「合唱コンクールで、口を無理に大きく開けて歌うのはなんだろうね? プロのミュージシャンであんな奴いるか? 逆に歌いづらくないかね」と揶揄したのと、もう僕は同じように聞こえてしまいます。

 

僕が書いた「自分を測る」も、それと同じ話です。

 

どういうことか、ちょっと妙を得た譬えを思いついたので書きますと・・・・・・たとえば、ある人が年末ジャンボ宝くじを買ったとします。

 

「6億円当たるかな~」なんて言ってワクワクし、当たったら家を建てようとか、世界一周に行っちゃうぞとか、夢をもんもん膨らませます。

 

そうこうしているうちに、宝くじの抽選の日を迎えます。そして元日。新聞をとってる家庭には、宝くじの抽選結果がのった新聞が配られます。

 

さあ、当選の結果はいかに・・・・・・!!

 

なんですが、なぜかその人は、宝くじの結果を見ようとしません。

 

「だって、すぐ結果を見ちゃうのって、なんか怖いじゃない? もしかしたら当たってるかもだし、当たらなければそれはそれでショックだし・・・・・・。いまのこのドキドキが好きというか、もう少し夢を見てたいんだよね」

 

それから、1ヶ月、2ヶ月と月日が過ぎ・・・・・・。半年が過ぎ。気づけば翌年の年末ジャンボの発売時期になってしまいました。去年買った宝くじの換金期限もいつのまにか過ぎてしまい・・・・・・けどその人は、去年宝くじを買ったことなんてすっかり忘れ、また新たに宝くじを買うのでした。

 

たとえ話はここまでですが、僕の思うに、いま言われてる「瞑想」ってこんな感じじゃないでしょうか?

 

僕がまえに書いた「自分の外に自信(夢)をつける」とは、簡単にいえばつまりこういう話なんです。それで僕は、そんなことやめろと、そんなことより「自分を測れ」と言うわけです。

 

つまり、さっさと結果を見ろというわけです。自分を知り、自分を学べというわけです。

 

「宝くじ」を、「自分の才能」や「生き方」に置き換えると、よりこの話の意味が分かりやすいかもしれません。自分の才能を、出し渋らずさっさと測ればいいのです。こう生きたいがあれば、さっさとやってみればいいのです。

 

だってこれは、自分を他人と比べるわけでも、人の期待に応えようとしてするわけじゃないですから。そうじゃなく「自分を測ろう」としてのみやってみるわけですから。だから、もし実際に測ってみた結果が酷いものだったとしても、そこに意味はありません。

 

むしろ、比べるものがないわけですから、酷い結果なんてあるはずがない。

 

垂直跳びで1メートルは飛べると思ってたけど、やってみたら50センチしか飛べなかった。だとしても、自分だけで測るなら「いまは、こんなもんか」と、ひとりで笑えるでしょう? むしろ結果なんてより、飛ぶ楽しさを発見するかもしれません。

 

それが、ヴィパッサナーなんじゃないでしょうか?

 

「物事をあるがままに見ることを、生き方にする」それが、「自らを知り、よそにあるものに夢を見ない」それが、実はブッダの言いたかったヴィパッサナーなんじゃないでしょうか?

 

そこにトランス状態や、特別な修行なんてのは存在しないのです。ただ一歩一歩、「いま自分は、足跡をどうつけているのか」を測るだけです。それだけで、きっといいんです。

 

ブッダが臨終の床で話した「自灯明」という話も、きっとそんな意味です。「自らが自らの道を照らせ」は、ヴィパッサナーそのものなんです。

 

面白い人、退屈しない素敵な環境、特別な学びなんか、求めてどうするんですか?

 

そんなのを求めれば求めるほど、「自分はつまらない」と自分に言ってるようなものです。

 

もうそろそろ、自分の内を信じてあげてもいいんじゃないですか?