かぐや姫の罪と罰。月とは、あの世のことであり、僕らもいずれ月へと帰る。
かぐや姫の「罪」は「地球にあこがれを抱いたこと」だという。
そして、その「罰」が、「地球に降ろされること」なのだという。
かぐや姫は月から来て、また月へと帰る。
月というのは「あの世」のことで、「あの世」から、この地球へ「生きるため」に、かぐや姫はやってきた。そしてまた、地球を離れ、お迎えとともに「あの世」へと帰っていく。
もしかしたら、僕たちもそうなのかも知れない。
僕たちはもともと「あの世」にいて、地球へ来ること、「生きること」に憧れ・・・・・・その「罰」で、いまここにいるのかもしれない。
そして、いつしか「罪」が許され、「あの世」からお迎えがくるかもしれない。
僕は、人が忘れ物をしたときなんかに、その人の「死」を感じる。
その人の大事にしてるものがここにあるのに、けど、その人は行ってしまった。というときだ。
僕たちは、忘れ物に想いを馳せる。
道ばたに落ちた片っぽだけの手袋に、僕らは透明な物語をみつける。
生きるとは、きっとこの透明なものの中身のことなんだろう。
「罪」と「罰」は、いわゆるひとつの「因果」であるといえる。
「因果」とは、「原因と結果」というような意味で、水を温めたらお湯になるというような話だ。もっと言えば、「お湯を飲みたい」と思うと「水が温まる」という話である。
「生きたい」から「生まれる」
透明なものに、一滴のいろどりを垂らす。
願いが、叶えられる。
かぐや姫の「罪と罰」の話を聞き、「なぜ、憧れることが罪で、生きることが罰なのか」と、そう思うかも知れない。
また「僕たちは生きたくて生まれてきたのに、それのどこに罰があるのか」と、そう思うことも出来るかもしれない。
願いがあり、それが叶ったのなら、それは「罪と罰」どころか、美しく素晴らしいことなのだと。夢を持ち、その夢を叶えるのは人生の成功そのものなんだと、そう思うかも知れない。
でも、どうだろう。
僕たちは、夢を叶えることの素晴らしさを、うまく説明することが出来ない。
たとえ突き詰めても「なんとなく、そのほうがいい気がする」としか言いようがない。
まるで、ポカンとした、透明な存在が浮かび上がり・・・・・・「いつかそこに、一滴のいろどりを垂らしたのは、もしかしたら自分かもしれない」と、かすかに「因果」を感じるくらいである。
もし、因果がなかったら・・・・・・。
もしかしたら「因果」そのものが、「罪」であり「罰」なのかもしれない。
しかし、そうなると、夢も希望も、憂いも悲しみも、この世のすべては「罪」と「罰」であり・・・・・・だとすると、「罪」も「罰」も、実はない。
あるのは、空っぽな、まるで金魚鉢のような透明な入れもの。
僕はそこで、小さなネズミと暮らしている。