始球式はじめました

「よーし、気が狂ったような文章を書きまくるぞー」
  
と思ってた矢先、「活元運動」ってな自分の身体をボキボキ調整するアオミドロの物真似みたいなことをしてたら、これが間違いで、身体の偏りが解消され文章を書く気がチーンと失せ、なんだか清浄な面持ちになってしまった。
 
 
てめえこの、ダンカンこのやろうって気分だったのに、とたん偏りが緩んで、ダンカンありがとうってな、そんな月の世界に帰ったかぐや姫みたいな、おほほほほになってしまった。
 
 
あああああ、しまったーーーーーーーーー。
 
 
というか、まったく偏りって大事やねえ。
 
身体と心はリンクどころか直結してるわけで、つまり身体に歪みや捻れなんていう偏りがあるから、心もそのように歪んで捻れて、人間を人間らしくしとるわけで。千差万別な身体の歪みが、そのままその人のあほでばかな面白い個性そのものなわけで。
 
いわば、「歪みが僕!」といって過言でないのに、なのに歪みをとったら一体僕になにが残るんだと・・・・・・
 
歪みが無くなったら、それこそ海老蔵ブログみたいな、ハートと音符の絵文字あふれる素敵な文章しか書けなくなるんじゃないかと、ああ考えただけでスリラー。
 
 
ともかく、歪みのない聖人になんてなりたくない。歪みを取るなんてもんは、まさに精神病患者に接種する抗うつ剤みたいなものだ。それはそれで悩みがなくなって良いような気がするけど、だけど同時に、その人だけが感じられた透明な光が、もはやその人に届かなくなってしまう。
 
 
そんなわけで、そこらに生えてる木も、みんな同じようにシャキーンとだけ生えてたらつまらんのです。大工さんからしたら、そんな木に巡り会えたら、うひょーってなもんだけど、これがもしその木と一緒に生きるとなると、歪んでたり穴があいてたりするほうがよっぽどエロい、っちゅうか、たまらんなあって、ほっぺたをすりすりしたり穴に棒を入れたくなるってなもんなわけです。
 
 
だから、歪み万歳というわけで、折れたり病気にならない程度に、もって生まれた歪み通りに、のびのび歪んで生きていきたい。
 
歪みが、ある一線を超えるとガン化したりするらしいので、その辺は絶妙なバランスでしこしこするとして。聖人でもなく、病むでもない、いってみれば病むラインをぎりぎり出るかどうかの、野球でいう、ストライクゾーンはアウトローいっぱいに入ったストラーイクッ!!くらいのとこを、これでもかこれでもかと攻めてきたいもんですな。
 
出来ればバッターが「いまのは入ってない」って本気で怒り出すくらいのアウトローいっぱいに・・・・・・
 
 
って、そう考えると、いまの世の中はみんな調整だ調整だってばかりでつまんないですね。
 
身体を心を整えて整えて、さあ、ど真ん中ストレート勝負よ!! って、確かにストライクを取ることは大事だけど、ストライクゾーンは広いんだからもっとギリギリいっぱい使わないと。そればかりだと、ストライク取る以前にそもそも野球する自体がつまらなくなる。
  
 
だから、もっとストライクゾーンぎりぎりいっぱいに・・・・・・
 
もっともっと危ない変化球で・・・・・・
 
 
ってしてたら、いつの間にかストライクにボールがまったく入らなくなったりして。投げても投げても、ボール、ボール、フォアボールって、ついにはアウトロー過ぎてストライクゾーンに人生がまったく戻れなくなったりして・・・・・・
 
もし僕がそうなったら、ああこれは始球式なんだと温かい目で、とりあえずバットは振ってくれる感じでお願いします。