ゴミ屋敷な世界

ゴミ屋敷に住んでる人は、自分がゴミ屋敷に住んでるとは思わない。
 
「全部必要なものだから」と言っては、モノを捨てずにさらに増やし・・・・・・結果、ゴミ屋敷を日々デラックスに成長させる。
  
 
 
「掃除した方が気持ちよく暮らせるよ」と、端から見ると思う。「どうせ使わないものは捨てたら」と、ついゴミに手を出したくなる。
 
 
しかし住人は言う。
 
 
「毎日、掃除するの面倒だもん。捨てるのも、いつ使うかもしれないし勿体ない!」
 
 
住人は掃除に追われて生きたくないという。掃除することで、どれだけ自分が不自由になるかと、どれだけ自分が損をするかと、あたかも論理的に正しいかのようなことをいう。
 
 
 
「義務に追われて生きるなんて、それって生きてて楽しいの? もっと好きなことして、やりたいことだけして生きていこうよ!」
 
 
 
聞いていると、こっちまで「確かに、その理屈は正しいかも」と思えてくる。いや本当にそうかもしれない。なんで掃除なんてするんだ? なんでゴミを捨てるんだ? ゴミだと思ってるものが、3年後にはお宝になるかもしれないのに!
 
 
 
 
・・・・・・というのが、この世界。
 
そして、この世界にはびこる魔術の正体です。
 
 
 
 
シンプルにいうなら、「私が考える」じゃなく「私の“問題”が考える」世界。
 
私じゃなく、私にある“問題”が、まるで自我を持ったかのように考え行動する世界。
 
 
 
いわば問題が問題を考え・・・・・・問題がいくら考えたとこで、問題をさらに複雑にする答えしか出せない! との、この世界はそんな魔術スパイラルにかかっているというわけです。
 
 
 
「じゃあ、問題が考えるんじゃなく、私が考え行動するにはどうしたらいいのか?」
 
 
と言ったら、そのためには、いまや無限に積もったゴミ屋敷と向き合わなければなりません。
 
そして途方もなく積まれたゴミを、地味〜にひとつずつ掃除していくのです。
 
 
 
 
あほなことを言うようだけど、この世界には結局「問題として生きるか」と「掃除をして生きるか」の二つの生き方しかないような気がします。
 
しかも「掃除をして生きる」としたら、自らのゴミ屋敷だけじゃなく、この世界中の無限ゴミも相手になって、もはや修羅のような人生を送らざるを得ません。
 
 
けど、本当に面倒くさそうで、しかも死ぬほどきつそうだけど、そのほうがいいんじゃないか・・・・・・? 
 
 
掃除して生きるほうが、たとえ大変でも、清々しく気持ちよく生きられるんじゃないか・・・・・・?
 
 
 
そんなわけで、僕は掃除して生きていきたい。
 
少しずつ、けど毎日。