ゴミ屋敷な世界

ゴミ屋敷に住んでる人は、自分がゴミ屋敷に住んでるとは思わない。
 
「全部必要なものだから」と言っては、モノを捨てずにさらに増やし・・・・・・結果、ゴミ屋敷を日々デラックスに成長させる。
  
 
 
「掃除した方が気持ちよく暮らせるよ」と、端から見ると思う。「どうせ使わないものは捨てたら」と、ついゴミに手を出したくなる。
 
 
しかし住人は言う。
 
 
「毎日、掃除するの面倒だもん。捨てるのも、いつ使うかもしれないし勿体ない!」
 
 
住人は掃除に追われて生きたくないという。掃除することで、どれだけ自分が不自由になるかと、どれだけ自分が損をするかと、あたかも論理的に正しいかのようなことをいう。
 
 
 
「義務に追われて生きるなんて、それって生きてて楽しいの? もっと好きなことして、やりたいことだけして生きていこうよ!」
 
 
 
聞いていると、こっちまで「確かに、その理屈は正しいかも」と思えてくる。いや本当にそうかもしれない。なんで掃除なんてするんだ? なんでゴミを捨てるんだ? ゴミだと思ってるものが、3年後にはお宝になるかもしれないのに!
 
 
 
 
・・・・・・というのが、この世界。
 
そして、この世界にはびこる魔術の正体です。
 
 
 
 
シンプルにいうなら、「私が考える」じゃなく「私の“問題”が考える」世界。
 
私じゃなく、私にある“問題”が、まるで自我を持ったかのように考え行動する世界。
 
 
 
いわば問題が問題を考え・・・・・・問題がいくら考えたとこで、問題をさらに複雑にする答えしか出せない! との、この世界はそんな魔術スパイラルにかかっているというわけです。
 
 
 
「じゃあ、問題が考えるんじゃなく、私が考え行動するにはどうしたらいいのか?」
 
 
と言ったら、そのためには、いまや無限に積もったゴミ屋敷と向き合わなければなりません。
 
そして途方もなく積まれたゴミを、地味〜にひとつずつ掃除していくのです。
 
 
 
 
あほなことを言うようだけど、この世界には結局「問題として生きるか」と「掃除をして生きるか」の二つの生き方しかないような気がします。
 
しかも「掃除をして生きる」としたら、自らのゴミ屋敷だけじゃなく、この世界中の無限ゴミも相手になって、もはや修羅のような人生を送らざるを得ません。
 
 
けど、本当に面倒くさそうで、しかも死ぬほどきつそうだけど、そのほうがいいんじゃないか・・・・・・? 
 
 
掃除して生きるほうが、たとえ大変でも、清々しく気持ちよく生きられるんじゃないか・・・・・・?
 
 
 
そんなわけで、僕は掃除して生きていきたい。
 
少しずつ、けど毎日。

コールドプレイを見てきました

先日なんですが、生まれて初めて東京ドームへ行きましてね。
 
そこで、なんといいましょうか、いま世界で最も売れてるというか、成功してるらしい「コールドプレイ」っちゅうバンドのライブを見たんですよ。
 
 
 
って、あああ! すいません!!
 
 
コールドプレイのライブに行くだなんて・・・・・・
 
そんなの、三度聞いても覚えられないアーティスト名の曲をシェアする“センスの塊”のような人からしてみれば外道中の外道・・・・・・!
 
そんな人からしたら、コールドプレイのライブに行く=万引きを告白するのにも等しい、恥ずべき行為・・・・・・!! 
  
 
にも関わらず、そんな万引きにワクワクしてドームの前で思わず写真すら撮ってしまった僕を・・・・・・ああ、どうか許してセンスの神様・・・・・・。
 
 
 
と言ったところで、実をいうとコールドプレイは中学のころから好きなんです。つまり僕にとっての一生忘れられない初恋みたいなもんで、今回のライブは、その20年越しの初恋がついに叶う、僕にとって非常に特別なものなのでした。
 
 
「ああ、ドームの一階席って遠いのかなあ。せっかくのライブで、なにも見えなかったらどうしよう、ああどうしよう・・・・・・」
 
 
ライブの一週間前から、まるで初デートに行く処女のような気分です。不安になりすぎて、amazonで双眼鏡を、それもお急ぎ便で注文しちゃうほどのおてんばっぷり。
 
 
 
そんなわけで、いざライブ当日の4月19日。
 
双眼鏡をぶら下げ、生まれて初めての東京ドームへ、三塁側の24番ゲートから入場し、42番通路から一階席の32列目372番の席に着したのでした。(この数字群を、いまも調べずに書けるほど完璧に覚えているという)
 
 
 
やった〜通路沿いの席だ〜! と喜んで席に着くと、その隣の席ではすでにビール片手に宴会が始まってました。
 
それもインド人でしょうか。もしかしたら、やたらハイテンションなインド人が、隣に5、6人はいるのでしょうか。
 
 
ふと一抹の不安を覚えましたが、「まあでも、ライブの時にこういうテンションの人が隣にいると盛り上がるしね!」と、良い方へ良い方へと思い込むことにしました。
 
 
 
お酒を飲んでるからか、彼らは何度もトイレに立ち、そのたび僕は身体をよじり笑顔で彼らに道を空けます。
 
僕が道を空けるたび「アリガトゴジャイマース!!」とボリューム調整の狂った大声でお礼してくれるし、うんうん。とりあえず、これも可愛いって思い込むことにしよう。
 
 
まあライブが始まれば、彼らもきっとトイレには行かなくなるでしょう。
 
そのときには、もう道を空ける必要もないし、僕もライブにきっと集中出来る。彼らと一緒にライブを全身全霊でエンジョイして、最後はハグなんかしちゃって、恥も忘れてラブ&ピースなんて言っちゃったりして・・・・・・
 
 
 
の、はずが、ライブの始まる直前、トイレへ行った隣人がそれまでの笑顔はどこへやら、虚無を見つめる目をして帰ってきました。
 
 
そして、いざライブが始まり、照明が暗転し、観客が総立ちとなり、クリス・マーティンが走ってステージに現れ、どっかーん!と、ドームのボルテージが一気にマックスになっても、隣のインド人は1人座ったまま無言で虚無を見つめていました。
 
 
 
えええ!? ちょっ、さっきまでのテンションは? アリガトゴジャイマースはどこへいったんだよ?! この数分で、あんたの身に一体なにが・・・・・・。
 
 
 
このインド人のあまりの変貌ぶりに、もはや僕もクリス・マーティンどころじゃありませんって、うそだろおい。なんでこんなに楽しみにしてたライブで、隣のインド人の心配をしなきゃならんのだ。
 
 
いや、いかんいかん! ライブに集中だ! 全身全霊でコールドプレイのライブを・・・・・・
 
 
としてたら、インド人グループの1人が虚無の彼になにやら怒るよう話しかけたかと思うと、虚無の彼が突然爆発。それこそボリュームの狂った声量の、よく分からん言語で大喧嘩をはじめて、すると今度は彼の隣にいた彼女らしきインド人が無言で虚無を見つめだし・・・・・・って、わあああああああああああ!! たたた、タスケテーーーー!!!
 
 
コールドプレイを見に来たはずなのに、同時上映のインド映画のほうが臨場感が凄くて、いや〜ほんとインド映画最高〜じゃなくて。
 
え、もしかしてこれは夢? インド人がこんな出てくるなんて、夢じゃなかったら神様がバランス調整をミスしたとしか思えないてか、あああ、一体なんでこんなことに・・・・・・。
 
 
 
はっ! そそそ、そうだ!! こんなこともあろうかと、わざわざ双眼鏡を買ったんじゃないか!
 
ライブを空間で感じようとしてるから、隣のスパイス臭が気になるんだ! 空間じゃなく、双眼鏡でスポットだけを感じよう! ライブじゃなく、クリス・マーティンだけを追えば、自然と集中してこの濃厚なマサラ臭も感じず、きっと最後まで楽しめる!!
 
 
 
というわけで、よーしと双眼鏡を取り出し、自慢の16倍ズームをさっそくクリス・マーティンにセットしました。
 
 
 
おお〜。クリスがおる〜。てか、めっちゃ走るなあ。てか、めっちゃピョンピョン跳ねるし、よく見たらめっちゃムチムチしてない?
 
 
 
おや・・・・・・?
 
 
 
あの体型・・・・・・。あの身体は・・・・・・。
 
僕の長年の占い経験と、整体で磨かれた観察眼で見たところ、沖縄でドラァグ・クイーンしているゲイな友達の身体と、いまステージを所狭しと走り回っているクリス・マーティンの身体がなぜか完全に一致。って、え?
 
 
醸すフォースも完全に一致。って、お?
 
 
 
おおお?? 
 
 
 
・・・・・・というわけで、それ以降、隣のインド人は最後までファックユーって叫んでるし(しかも、一番盛り上がるときに限って通路に出たがる)、クリス・マーティンを見るたび音楽とは違う神妙な部分を感じてしまって、あああ、僕はもうダメかもしれません。
 
 
心が汚れているのか、もはや見えるのは着ぐるみの中の世界ばかり。
 
もうファンタジーには戻れないのか。もうすべてを冗談だと思って、笑い飛ばして生きてくしかないのか。
 
 
・・・・・・でも、コールドプレイに会えたのは嬉しかったし、彼らのことも彼らの音楽も僕は一生愛するでしょう。
 
こればかりは、ファンタジーではない。

ウメハラ最高ブログ

前回の文章で、僕の愛の限りを尽くして褒めたたえた「梅原大悟」ことウメさんが、先週、慶応大学でビジネスパーソン向けに講演をしたのです。
 
 
で、その講演を、有り難いことに講演会費5000円のとこを、ネットで無料配信してくれましてね。しかも“生”配信っちゅうわけで、僕も見てたのですが、これがまたまた非常に素晴らしかったのです。
 
 
 
僕なんか、もう繰り返し5回は見直しちゃったというか・・・・・・
 
 
と、ここまで書くと、そろそろ僕のことを「オスに発情するオス」みたいな目で見る人も現れるかもしれませんが、そんなんじゃなくてね。
 
 
そんなんじゃなく、言ってみれば、彼は「寅さん」なのよ。もはや忘れ去られつつある昭和のいいとこが、三丁目の夕日みたいなもんがウメさんにはあって、それが僕の育ちの悪いところと出会いの化学変化を起こさせるのよ。
 
 
 
そんなわけで、前回伝わらなかった人のために、彼がどんな人なのか、今回の講演の特に僕がシビレた部分の引用を、とりあえず2つほど紹介しようと思うのですが・・・・・・
 
 
 
では、まず1つ目。僕が、か〜っ!と、思わずこの話を酒のつまみにして一杯いきたいと思ったところを、紹介いたしましょう。
 
 
一体どんな話かというと、それは第二部の質問コーナーでのことでした。
 
質問者の顔は見えませんが、おそらくメガネをかけた面長の男性が、ウメさんにこんな質問をしました。
 
 
 
「お話を伺ってると、梅原さんはすごく自我を確立されてる方だなと思ったんですけど・・・・・・。梅原さんの、その自我の源泉のようなものがあるとしたら、いったい何になるのでしょうか?」
 
 
 
すると、ウメさんはこう答えたのです。
 
 
 
「この歳というか立場になると、いわゆる成功者という人たちに、ちょこちょこ会わせていただくわけですよ。
 
 そうすると、『ああ、自分と違うな』と思わされることが多くて・・・・・・
 
 
 それがなにかというと、
 
 その成功者の方々は、なんか“未来に期待してる”んですよね。
 
 
 そういうと、『じゃあお前は未来に期待してないのかよ』って思うかもしれないし、今後、結婚して子供が産まれたらとかあるかもしれないけど、そうじゃなくて。
 
 
 たぶん・・・・・・
 
 自分にとって一番楽しいことってのは、おそらく過去にもうあるんですよ。
 
 
 なぜかというと、子供のころより自分が純粋になれることがないですから。
 
 だから、もう失っちゃってるんですよ。一番楽しいこと。
 
 
 きっとみんなそうですよ。子供のころより楽しいことはない。
 
 
 いろんなことを手にしていくけど、本当の意味で子供のころより楽しいってことはないと思う。
 
 
 でも・・・・・・、ちょっとでも、あのころに近づきたいんですよね。
 
 
 で、一括りにするのも失礼だけど、成功者といわれる人たちを見ると、なかには『もっと金だ』『もっと名誉だ』『もっと偉くなりたい』って、その先に何かあると感じてるんだろうなって見ながら思うんだけど、いやいや変わんないだろうと。
 
 それは、どこまでいっても同じだと思うよ、っていうのが僕の感覚なんですよ。
 
 
 だから、僕が、なにを求めて動いてるのかといわれれば“一番楽しかったあのころに、ちょっとでも近づきたい”ってことですね。
 
  
 だから、そのために、いらないものがあれば平気で捨てちゃう。
 
 平気で投げちゃうと、そういうところがありますね」
 
 
 
・・・・・・あああ、2つくらい紹介しようと思ったけど、これだけでいいか!!!! 
 
と思ったけど、他の話も素晴らしいので、それはまた次回にでも紹介するとして、今宵はみなさまが美しい夢を見れることを祈っておやすみなさい。

僕がいま最も神と崇める人

僕がいま、誰より尊敬する人を紹介します。(というか、今回の文章は5000字もあって長くて死ねるけど、読めば、むっちゃいい話だときっと思うので・・・・・・!頼むから、読んで読んで読んでくださいいいい)
 
 
 
それは僕の整体の師匠・・・・・・じゃ、ありません!!! って言ったら、いろんな人からナイフのような視線が注がれそうで怖い怖い。
 
いや、もちろん整体の先生のことも尊敬してますけどね。してるんですけどね・・・・・・でも、32歳との、戦国時代の平均寿命に差し掛かかる男子の乙女心は複雑というか、先生より個人的に大好きで尊敬している人がいるのですこれが。
 
 
 
言ってみれば、「この人のようになりたい」という、まるで少年のような憧れを抱いてしまう人が・・・・・・この歳にして、ついに出来たの(ぽっ)。
 
 
 
って、それこそ「憧れは、整体の分野で抱けよ!」ってツッコまれそうだけど、もうそこは鬼のガン無視で、いよいよその、私が神と崇めるお方の御名をご紹介したく思います。
 
 
  
その人は・・・・・・
 
 
その人の名は・・・・・・
 
  
 
 
 
ウメハラ」です!!!!!!
 
 
 
そう、あの「ウメハラ」こと、梅原大悟です! 
 
あ〜言っちゃった。って、あれ?! もしかして、あなたもウメちゃんのファンでしたか??
 
ほんとすごいですよね、ウメちゃんの「波動拳」は!!! もしかして「漫画ウメハラ」も読んでます? かの有名な「背水の逆転劇」なんか鳥肌もんだし、なんたって彼は3つのギネスホルダーでもあるし・・・・・・もうほんと・・・・・・
 
 
 
って、あれれれれ???
 
なんで「波動拳」が一発で文字変換できないんだ? ってか、スペースキーを何回押させる気なのこれ? おかしくないこのキーボード? 「波動拳」が一発で変換出来ないって、なめてんのか?
 
 
 
・・・・・・じゃなくて、ああ、すみません、現実逃避しておりました。
 
 
鼻息を荒くし「ウメハラを知らないなんて笑」との空気を出すべく奮闘いたしましたが・・・・・・、きっと、僕の友達なんかも誰も知らないのでしょう。それが現実なのでしょう。そもそも僕の友達はテレビも見ない人ばっかだし、そんな人らがウメハラ言われても、きっと「誰それ」なんでしょう。
 
もとい、テレビが好きで「ガッキー可愛い!」とか「カナブンブーンデモエビインビン」とか言ってる人らとも住む世界が違いすぎて・・・・・・あああああ、もうこんな世界、我慢できーん!!!!!! 
 
 
 
なんでみんな、彼の素晴らしさを知らないんだ!!! というか、知って欲しい! いや、頼むから知ってくれ!!!
 
 
と、僕の愛の波動が、いよいよ殺意の波動に変わりそうなので、ともかく、今日はみんな聞いてくれ! 頼むからみんな聞いてください!!! 長くなるけど、「いい話だった」と、きっと思うから!
 
 
 
 
というわけで、じゃあウメハラが何者かというと、彼は日本人初の「プロゲーマー」です。
 
主に「ストリートファイター」という対戦格闘ゲームを主戦場とし、最近ではNHKなんかでも特集されたりする、ゲーム業界では世界でも有数の有名人です。
  
 
 
「ああ、ゲームか」じゃありません。「所詮、ゲームでしょ」だなんて・・・・・・いやいや、もし偏見があるなら、よくよく考えてくださいよ。
 
将棋もチェスもゲームでしょ? もっといえば、スポーツその他もみんなゲームじゃないですか。
 
 
 
で、僕から言わせると、そういうスポーツ選手やらより、ウメさんのが何段も飛び抜けてるところがある。他にはない、非常に尊いところがある。
 
 
 
それはなにかというと・・・・・・たとえばプロ野球選手を夢見る少年がいたとしましょう。その少年はテレビを見て「僕もいつかは巨人に入るぞ!」とかなんとか思って、その夢を原動力として頑張るわけです。
 
それに伴い、野球が上手くなれば周りからもチヤホヤされ・・・・・・なんというか、少年は、言ってみればこの社会の「王道」を通ってプロ野球選手になるのです。
 
人生になんの疑問を感じることなく・・・・・・誰かが描いた、美しい夢を実現してプロ野球選手になっていく。
 
 
 
しかし、これがウメさんの場合だと、そうはいかない。
 
なんたってゲームです。現在でも、これだけの偏見があるのです。いや偏見というより、僕やウメさんが少年のころは、それはあくまで「現実」でしかなかった。
 
 
 
「ゲームが上手くなったところで、一体なにがあるんだ・・・・・・」
 
 
 
言ってみれば、ゲームなんて上手くなったところで夢も希望もなかった。いや、夢がないだけならまだしも、ゲームセンターなんてのは「人生の敗者の集まり」みたいな、そんな烙印すら押されていた。
 
 
「このまま行けば、悲惨な人生になる・・・・・・」
 
 
“道無き道”どころか、この道の先は“底なし沼”かもしれない。このまま行くと、もう浮かび上がれないかもしれない。
 
でも、ウメさんは、1年のうちの363日もゲームセンターに通い続けた。
 
最近出演した番組では、「人」という漢字を「入」と書くという・・・・・・思わず見てる人が「放送事故だ! カメラ止めてー!」と衝撃を受けるほどに恐らく勉強もせず、その持てる能力のすべてをゲームに捧げた。
 
 
そして一時は麻雀や、勝負の世界に疲れて介護の仕事をするも、人の縁からゲームの世界に戻り、「この大会を最後に、ゲームはやめよう」と決意して挑んだ世界大会で優勝し・・・・・・
 
そこで「プロにならないか」との声が、いってみれば「夢にも見なかった」ことが起き、彼は日本人初のプロゲーマーになったのです。
 
 
 
 
・・・・・・って、この尊さが分かりますか?
  
これで食ってけるはずのないものに、己の全てをフルスイングしてきたこの尊さが。
 
もっといえば、やればやるほど人生を狂わすかもしれないものに、その暗闇の先に向き合い続けた、この尊さが。
 
 
 
 
で、さらに、ここからがウメさんの尊さを超えての崇高なとこなんですが、普通の人なら、まずここで調子に乗るわけですよ。
 
 
プロになった時点で、ある種の成功者ですから、自分って最高とかなって「好きなことだけやればいい!」とか、そんなタイトルの本を出したりしちゃうわけです。
 
自分の生き方は正しいんだと、「みんなも自分と同じようにするべきだ!」と調子に乗って、さらには成功者と呼ばれるような人と付き合い出したりしちゃって。
 

 
  
しかし、ウメさんは・・・・・・こんなことを言うのです。
 
 
 
そして、この発言の瞬間から、僕は「この人は聖人なんじゃないか」と心から尊ぶようになった。
 
 
 
一体どんな話かというと、それは、ある日のウメさんのネット番組でのことでした。
 
タイトル画面が明けて番組が始まると、そこにウメさんと、同じくプロゲーマーの「ボンちゃん」と、そしてもう1人、正体不明の男性が画面に映し出されました。
 
 
ネット番組では、視聴者が番組を見ながらコメントが出来るのですが、画面が出るや、そのコメント欄も一斉に「左の人、誰?」とザワつきはじめた。その人が、剛毛なクチひげを生やしてるもんだから、画面に与えるインパクトも強く・・・・・・
 
 
すると、ウメさんが「まず、視聴者の疑問を解消しよう」と、その正体不明の男性について話し始めた。
 
 
 
「説明すると、折笠格という男でして・・・・・・」
 
 
 
話によると、その折笠さんは、ウメさんを主人公にした「漫画ウメハラ」の“元”原作者ということでした。
 
というのも、漫画がスタートし、間もなくして、こいつは使えないと折笠さんはクビになってしまった。
 
 
しかし、せっかく個人的に気が合い仲良くなったのに、ここで縁が切れるのも・・・・・・と考えたウメさんが、折笠さんに、自らが新たに出演するネット番組の裏方の仕事を紹介し・・・・・・たのだけど、それも2ヶ月ほどで結局クビになってしまう。
 
 
 
それで、なんにも出来ない彼でも、さすがにこれなら出来るんじゃないかと、わざわざ新しいネット番組の枠を作り、そこで「番組の、視聴者コメントを拾う仕事」をして貰おうと。


「折笠 ここで死んでしまうとは情けない」と、ウメさんが復活の呪文を唱え続けて、ついにこうなったと、つまりはそういうことでした。
 
 
 
「彼は、秀でたモノがなにもない。なにも武器がない」
 
 
 
そして、折笠さんという人間を説明すると、彼は、ドラクエで言う「お金を稼がない商人」なんだと。「こいつにはコレ!」といった、突出した能力が何もない、なにかひとつの能力を伸ばすことをせず、ただひたすら平均的に能力を振り分け続けた・・・・・・
 
 
 
「絶対に、ボス戦に連れていけない奴」
 
 
 
だから、彼は、行く先々で「こいつは仕事が出来ない」とチョンパされる。秀でたモノがなにもないために、この世の中で「使えない」との烙印を押される。
 
 
 
「けど・・・・・・」
 
 
 
ここからが、ついに本題です。ここからが、いよいよ僕がウメさんを聖人だと崇めるにまでなった決定的な箇所になるのですが、まあ、ここでウメさんがこう言うわけです。
  
 
 
「おれは、『職業』っていうものが嫌いなの。その規則が嫌いなのよ。
 
 ってのは、この社会では、能力を特化すれば特化してるほど評価を高くされるじゃん。
 
 すごい歌が上手いとか、すごい演技が上手いとか、すごい野球が上手いとか、ゲームだってそうだよ。おれら評価されちゃって。
 
 
 だから、社会的な物差しで見たら(特化した能力のある人は)評価されるんだけど・・・・・・
 
 
 
 でも、もし、この世から職業を全部取っ払いました。食い物が無限にあります。欲しいモノがなんでも手に入ります。もう誰も働かなくていい。
 
 
 
 そうなったら・・・・・・彼は大スターよ?
 
 
 この時代が、まだ『職』を必要とする時代だから、彼の価値に気付けない。」
 
 
 
 
・・・・・・つまりウメさんは、自分が誰よりもひとつのことに特化した生き方をしてきたにも関わらず、そしてそれによって世の中でも評価されてるにも関わらず、
 
 
「人間には、もっと評価や効率より大事なことがあるんじゃないか」
 
 
と言ってるわけですよ。
 
 
 
能力を特化していくと、それに伴って人格も歪んでいきがちだと。ひとつ出来るだけで、すべて出来るような気になって、周りからも持てはやされて人格が歪みがちになると。
 
けど、実際、そういった人格が歪んだような人でも、いまのこの世の中では、なぜか出来る一面だけで評価される。みんなはそれをどう思ってるんだと、そう言うのです。
 
 
 
そして、ウメさんは自分を指さし・・・・・・
 
 
「もしプロゲーマーなかったら・・・・・おれヤバくない・・・・・・?」
 
 
 
と、この夢の世界から、あくまで醒めた目で自分を見続けている。
 
 
「結局、どんな偉そうなこと言ったってゲーマー、それがプロゲーマーになったって同じだ。所詮は、いい歳して遊んでる連中ですよ」
 
 
 
 
 
ミュージシャンなんかでたまに見かけるが、自分のことを「ドラゴンクエスト」というゲーム内の「遊び人」というキャラクターに例え、こんなことを言う人がいる。
 
 
 
ドラクエの『遊び人』は、他のキャラは無理なのに、『遊び人』だけがレベル20になると『賢者』になれるんだけど・・・・・・遊び続けてたら、おれも気付いたら(賢者に)なってたよね」
 
 
 
いや、違うんです。ドラッグや女遊びは、本当の遊びじゃない。
 
そんなんじゃなく、本当に遊びを追求するとは、絶望を追求することと同じなんだ。
 
ピエロが流す涙の先にこそ、自分を尊ぶとは真逆の、もはや幼子の優しさかのような本当の智慧があるんだ。
 
 
 
世界は、彼のような人をこそ大事にして欲しい。ウメハラこそ現代の賢者だ。

傘がガンガゼになった話

雨が降ってるなと傘をさして出かけたら、道途中で傘が「ボン」と音を立て大破し、一瞬にして、まるで鬼の子と呼ぶにふさわしい危険ゴミになった時の話でもしましょうか。
 
 
 
いや、ほんとに、いま話題の突然死とはこのことですよ。
 
 
もっといえば、ある日突然、離婚を切り出されるアレとでもいうか、それまで僕を気丈にして雨から守ってくれた傘が、まるで海の危険生物「ガンガゼ」もとい、一瞬にして「嘘でしょ」としか言いようがないモノに豹変してしまったわけですから。
 
 
一瞬にして「人類の言語領域を超越した“なにか”」に突然変異したわけですから。
 
 
 
もうね。本当にびっくりしました。
 
「よく知ってるモノ」が、突然「言葉にできないモノ」に化けると、人間の思考回路も停止しちゃうと、このとき始めて知りました。
 
 
そして、雨の中、壊れた傘を思考停止の状態で呆然と眺める僕は、誰がどう見ても「哀れ」の権化でした。ここまで哀れな人はなかなかいないレベルの哀れさというか、無力というか、ジャンガリアンハムスターより最弱でした。
 
 
 
もはや、なにも分からなくなりました。
 
ガンガゼのようになった傘を見つめながら、この世の全てが一瞬なにも分からなくなりました。
 
それは、生きてるとも死んでるとも言えない、なにか、ずっと包まれてた皮がつるっと剥かれたような。
 
皮を剥かれ、無垢で、弱い部分がつるっと露出して、もう一度全力の声をあげ泣き出したいようなそんな気になって・・・・・・
 
 
 
  
しかし、ふと我にかえり、人に見られてる自分に気付いて恥ずかしくなりました。
 
 
皮は一瞬にして閉じてしまいました。
 
また僕は、この分かりきった世界に、ただの壊れたビニール傘片手に戻ってきてしまいました。
 
 
 
そんなわけで、明けましておめでとうございました。
 
 
今年の抱負は、「全力で、ぎゃん泣き出来る自分になりたい」です。
 
みなさんにとっても、素敵な一年になりますように。

前世というのが本当にあるのだとしたら

不思議だ・・・・・・。
 
まったくもって、摩訶不思議。
 
 
 
 
ってのも、前回、僕は神の子殺しを白状しました。
 
まあ、白状したといっても「あなたの前世は・・・・・・」って言われたことに1人盛り上がっただけの、言うなれば“ノストラダムスの大予言”的な話なんですけどもね。
 
 
 
実際、これを大槻教授に言ったら、むっちゃ怒られそう・・・・・・けど、もし仮に、大槻教授に百歩譲ってもらうとして、もし仮にそれが本当に真実だったとしたら?? 
 
仮にこれが真実だとして、その延長線上に自分という存在がいると考えたときに、一体そこになにが見える??
 
 
 
ともかく、そんなんで僕のメルヘンパワーを全開にし、まるで片思いのあの人にウフフと想いを馳せるように、その前世のローマ兵の彼と、いまの自分との共通点を探すと・・・・・・
 
 
 
「え? ローマ人といえば、テルマエ・ロマエ? ちょ、僕も温泉、大好きなんですけど〜!!」
 
 
みたいな感じで、二丁目のノリですいませんというか、まあ共通点だらけでこれが非常に興味深い。
 
 
  
また、前世がローマ兵だとしたら、きっと彼は格闘技にも長けてただろう・・・・・・そう思うと僕も、中学にした柔道では、何十戦して、「ブッチャー」という生涯忘れられないニックネームを持つ、大きな卵形の顔に、くっきりした二重あごが印象的な友人に、完璧に気を抜いて負けた一敗しか記憶がない。(組み合って、彼と見つめ合うのが面白すぎて負けた)
 
 
柔道では学校の番長みたいな人とも試合をしたけど、これも負けなかった。というか普通に勝っちゃうもんだから、「もう1試合!!」と、漢の負けず嫌いに火をつけちゃって、周りに誰もいなくなっても永遠と相手させられた。(結局、負けない)
 
 
 
それで、弓道にしても、始めて半年で大会初参加にして優勝しちゃうし・・・・・・いやはや、これだけあると、本当にローマの彼と僕は運命の人なんじゃとそんな気がしてくる。
 
 
いままではそれを、縄文人のDNAのおかげとか、「日ごろの鍛錬の成果です!」なんて偉そうに言ってたけど、本当は・・・・・・
  
才能とか、鍛錬の成果とか、そんな生やさしいものじゃなく・・・・・・
 
 
 
 
実は、前世で、野獣のように人を殺しまくってた名ごりなだけなんじゃないか。
 
 
投げ飛ばしては剣で貫き、遠目から弓矢で敵兵を殺しまくったんじゃないか。だからいまもそれを覚えていて、染み着いてて出来るだけなんじゃないか。
 
 
なにより前世で、殺しちゃいけない人を拷問にかけたのだとしたら、いまの僕の、暴力への猛烈な拒否反応は非常に納得がいく。きっとそれをしてから、死ぬほど後悔をしたのだろう。
 
 
 
また暴力への恐れは、後悔だけじゃなく、自分の中にいる“獣”を恐れるが故であるかもしれない。
 
 
というのも、一度、瞑想で自分の奥深くへと潜ったときに、まるでダウンタウンの浜ちゃんが、熱々のおしぼりを「ひゃひゃひゃひゃ!」と笑いながら山崎邦正の顔に延々とかける、あの狂気の獣が自分の中にもいると分かった。
 
 
というか、その獣と出会うや、僕はその顔が気持ち悪すぎて嘔吐した。その顔にもう出会いたくない恐れが、あの獣を恐れる気持ちが、僕の暴力への恐れとして現れていると、そのとき知った。
 
 
 
 
そして、あの顔が、きっと前世の僕なんだろう。あの顔は狂気に染まっていた。拷問をすることに麻痺し、それ自体に楽しみを見いだしていたような顔だった。どうしたら人が苦しむかを、知り尽くしている顔だった。
 
 
それで、その顔と戦ってるのが・・・・・・いまの僕か。その顔を押し込め、良い人でいたいと。その顔がしようとする逆のことをしようという、もしかしたら、それが生きるということなのか。
 
 
 
もしかしたら人は、前世の自分と戦うために、もう一度生まれるのかもしれない。もしかしたら、誰の心の奥底にも“前世の顔”というのが眠っていて、その顔と出会うのを恐れ、その顔に反発し続けるのが今の人生なのかもしれない。
 
 
自分という人間の性質、行動は、きっとそんなとこから生まれてるんじゃないか。それが運命と呼ばれるものか。
 
 
そして、その前世の顔と戦い続けるのが、輪廻なのか。
 
あの顔と戦い続ける限り、きっとこの人生でも僕は間違いを犯す。その間違いと戦うために、もう一度生まれ変わる。何度も何度もそれを繰り返す、それが輪廻か・・・・・・。
 
 
 
だとしたら、およそ魂に自由はない。がんじがらめで、何のために生まれてきたのかといえば、幸せな未来を築くためじゃなく、過去の因縁と向き合うためでしかない。
 
なにかに一生懸命行動する人ほど、その人は実は過去の顔と戦ってるのかもしれない。
 
過去の恐るべき自分に打ち勝つために、それを忘れるために、そう行動せざるを得ないのかもしれない。
 
 
 
じゃあ・・・・・・結局のとこ、いまの自分にはなにが出来る?
 
すべてが反発で、反応や反射からの行動だとしたら、いまの自分が、本当の意味で出来ることは?
 
 
もし、出来ることがあるとしたら・・・・・・
 
 
 
 
それは、きっと自分を許すことでしかないんだろうな。
 

ヴィパッサナー瞑想に行ったら大変なことが起きた話

11月6日に32歳になりました。
 
 
32歳・・・・・・
 
それは30歳のときに感じた危機感を、徐々に忘れゆく歳・・・・・・というか、この2年で危機感どころか何事も気にしなくなる図太さが育まれ、いよいよ人前でリアルなオナラをしてしまうんじゃないかとソワソワな年頃、それが32歳です。
 
 
 
とまあ、そんなことはさておき、誕生日前に久しぶりにヴィパッサナーに行き、そこで「とんでもない事実(?)」を知る羽目になってしまいました。
 
 
 
って、ヴィパッサナー言っても、もしかしたら知らない人もいるのかしら。
 
一応説明しますと、10日間喋らずに瞑想ばっかする合宿みたいなものなのですが、僕は過去に2回行ってての今回で3回目の参加でした。
 
 
 
そう、3回目。
 
前後合わせて12日間の時間がないと行けないし、そもそも行くために予定を空けるほど僕もそこまでやる気のある人じゃないし・・・・・・
 
だったのに、偶然、予定が12日ほど空くということが起こり、ふと思いついて調べると、きっかり空いてる12日間にヴィパッサナーのコースが開催されるとあり、じゃあキャンセル待ちに応募だけして、もし連絡が来たら・・・・・・としてたら普通に連絡が来て、ああ参加しろってことかなと参加してきました。
 
 
もはや、参加したくてというより、義務みたいなもんですな。
 
 
参加したところで、どうせ体験し尽くしたことを再体験するだけだろうし、いっても風呂のカビ取りみたいな、自分を切り刻む定期の仕事をしにいくという感じで、別段、なんの面白いことも期待せずに行ったのですが・・・・・・
  
  
 
だったのに、それが今回は、ちょっと自分の想像を超える出来事が起こってしまった。
  
 
 
というか、事件は瞑想中じゃなく、瞑想の終わりに起こったのでした。
 
 
 
 
ことの発端は、施設の掃除を終え、さて帰るぞーとセンターの送迎車でバス停まで送ってもらってからのこと。
 
バスが来るまでまだ30分もあるのかーと、ここぞとばかりにそれまで隔離されてた麗しい女子に絡んでたら、ふと同じバスに乗りたい方達がピストンされた送迎車に乗って現れました。
 
 
そこで、あらどうもー。また会いましたねーと、軽い感じで挨拶・・・・・・のはずが、その新たに来たうちの1人が、僕を見るなり突然こう叫びました。
 
 
「オトナリサーン!!!」
 
 
おおおおお。
 
そういうあなたは、僕の左隣で瞑想していた一見外国の人じゃないですか。一言も喋らなかったから知らなかったけど、実はそんなに日本語がお上手だったとは・・・・・・
 
 
 
するとその一見外国人の彼が、周りの方々に僕を指して

「彼の隣だったけど、ほんと彼は岩みたいに動かなかったよ〜! ほんと、彼はすごいね!!」
 
 
 
なんて言い出したので、僕は内心、えっへん!と得意げになりました。。。
 
じゃなくて、今回は6列ぐらいあるうちの先頭の、しかも真ん中で瞑想をする羽目になったので、ちょっと後ろの人たちの見本になれるよう頑張ったというか。もとい、正直言うと、恥ずかしながら僕を支えていたのは見栄だったのでした。ううう、格好つけてしまった。。。(というか、もとがダメ人間なので、人一倍がんばらないと得るものがないのですよこれが)
 
 
 
としたところにバスが来て、さて乗り込みますかーとなったところで、一見外国人の彼が、急に小声で僕にこう話し始めた。
 
 
「実はワタシ、瞑想でとても深いところに行くと“ゼンセイ”が見えることがある」
 
「え? 全生?」
 
「“ゼンセイ”ね。その人が生まれる前の・・・・・・」
 
「あ、分かった分かった!“前世”か! 」
 
「その前世なんだけど、たまに自分だけじゃなく、周りにいる人のも見えることがある。それで、人のを見たいとはいつもは思わないんだけど、あなたのはつい見えてしまった」
 
「えええ?」
 
「それで、もし機会があれば、あなたが前世を聞きたいかどうか話そうと思った。でも、あなた先に帰ったと思った。だから、ああこのことは言わないほうがいいんだと思ってたら、またここで出会えた。だからこれは言ったほうがいいと思った」
 
「ちょ、ほんとに? 」
 
「だけど、もしあなたが聞きたくないなら言わないけど」
 
「いやいやいや、そこまで言われたら聞きたいに決まってるじゃないですか!! と、とりあえずバスに乗りましょう! バスで話の続きを!」
 
 
 
 
というわけで、僕らはバスに乗り込んだ。
 
そして乗り込みながら、しかし前世とは・・・・・・、と考えた。1年前の自分を振り返っても恥の固まりなのに、これが前世なんていったら。えええ、聞きたいとは言ったものの、本当に聞いていいのか。聞いたところで、鬱が爆発するんじゃないのこれ?
 
 
というか、そもそも、彼は本当に見えたのか。僕はこれまで幾度となく、いろんな人から「あなたの前世は〜」って言われたけど全部嘘だったぞ。
 
 
もとい、誰ぞが「私の前世は〜」と語ってるのを見ては、ああまた騙されたとも知らないメルヘンワンダーランドの住人がひとり・・・・・・なんて思っているぞ。
 
 
 
まあ、ともかく、前世なんてのは信じないに限るのですよ。いや、信じるに値するものだとしても、それは誇らしいものじゃなく、1年前の自分を見るような恥として見るべきなんです。だって僕らは、常に変化成長し続ける存在なんですから・・・・・・
 
なんて、前世退行催眠とかを散々やってきた僕が言うのもだけど。ほんと、すいません。
 
 
 
 
そんなわけで、一見外国人の彼が僕の前に座り、そこから後ろを振り返るような姿勢でこう話し始めた。
 
 
「ワタシはいつもは、本当に人のを見ようとは思っていないね。けど、あなたとワタシは前世で同じ場所にいて、それで感覚が共鳴して見えてしまった」
 
「へ〜」
 
「他の人のも見たことはあるけど、大抵の人の前世は泥棒だったりとか、戦争で死んだとかばっかりだけど、あなたのは違った。あなたは特別な場所にいた」
 
「その場所って・・・・・・?」
 
イスラエル
 
「おお、イスラエルとは、いいとこじゃないですか!」
 
「そこの・・・・・・たくさんの人がいる場所ね。そこでワタシに見えたのはWhip・・・・・・」
 
「うぃぷ?」
 
「武器みたいなものね。長い革で出来たヒモを振って使う・・・・・・」
 
「ああ、ムチね!」
 
「そう、そのムチとか、そのムチの先に金属のトゲのついた板がついていて、そのムチで叩くと人の肉が削がれる」
 
「えええ、それって拷問じゃないですか! まさか僕、拷問うけてたんですか・・・・・・? それ、パッションって映画で見ましたよ・・・・・・」
 
「そう! それ!」
 
「え? なにが?」
 
「そのパッションの舞台にあなたはいた」
 
(パッションとは、イエスキリスト最後の数時間を映画にしたもの)
 
 
 
「は・・・・・・? え・・・・・・?
 


 えええええ!?
 
  
 
 も、もしかして僕、ジーザス?!」
 
 
 
 
 
 
「違う」
 
 
「なっ! 」
 
 
「ジーザス違うね」
 
 
「なっ! って、ああびっくりした。いや、違うに決まってるけど、ちょっとドキッとしたじゃないですか!」
 
 
「ジーザスじゃなく、ジーザスを叩いてるのがあなた」
 
 
「なっ!!」
 
 
「あなたはローマの兵士で、命令されてジーザスをムチで打ってる」
 
 
「えええ! ってことは、パッションに出てるあの悪い奴は、僕?!」
 
 
「命令だから仕方なかった。あなたは仕事を忠実にしただけ。けど、そのせいで、あなたの中には物凄いサンカーラがある。あなたはそのサンカーラをどうにかしないといけない」(サンカーラとは、感情の固まったもの。その固まりが魂やら身体に蓄積し、その人の性格や感受性、また病を作る)
 
 
 
 
おおおおおお。
 
なんということだ・・・・・・。というか、仮にこれがデタラメな話だったとしても、その想像し得るローマ兵たる特性と、いまの僕の性格にはあまりに共通点があるじゃないか。
 
 
実は僕は、生きてること、またすべての自分の行為を仕事だというように思っているのだけど、まさにそれって・・・・・・。もとい、僕は自己犠牲の固まりのような人間だし、実際、我をなくして、これまでどれだけ身を尽くして仕事をしてきたことか。
 
なにより、いままで人に頼まれて選挙活動の仕事を散々してきたけど、それこそまさに兵士としての仕事じゃないか。やりたくないのに降って沸く、僕のカルマそのものじゃないか。
 
 
また、僕のこの猛烈な天の邪鬼もとい、体制側や“普通の幸せ”への革命的な感情も、命令に忠実なあまりに神の子を殺してしまった後悔からくるんじゃないか・・・・・・?
 
 
 
って、イエスを直接殺したのって、もしかして僕なんじゃないか???
 
 
 
 
というか、人に前世というのがあって、それがいまの自分を作ってるとしたら、こりゃいまの僕は一体どうやって太刀打ちしたらいいんだ。
 
自分というのを2000年前からの存在として、もしくはそれ以前の、地球や宇宙が生まれる前からの存在としての幅を持たせたときに、果たしていまこの僕に一体なにが出来る?
 
DNAといい、前世といい、僕に残された自由はどこにある?
 
 
 
 
あああ。そういえば昔、前世を見ようと自分で深い催眠に入ったときもローマ人のような格好をしてたなあ。
 
それで神殿のような場所で、誰かに左わき腹を刺されて死んでたっけ。一体なんの恨みを買ったのか謎だったけど、まさか神の子殺しだったとは。
 
そりゃ刺されても文句いえませんというか、パッションを初めて見たときに「あの映画は、なぜか一度見たことあるような既視感があるよね」なんて言ってたけど、そりゃそうだよ出演者だよ。
 
 
 
ああ、重い。32歳の最初から重すぎる。。。
 
ちなみに、ヴィパッサナーでは、最後の慈しみの瞑想のときに「もっと人を愛せるようになりたい」と思って泣けました。