「アナと雪の女王」は、実は“ありのまま”を全力で否定している件 ネタバレレビュー

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アナと雪の女王」を見たのですけど、ちなみにこの映画を見た人は、見て一体なにを感じるのでしょうね。

レリゴー、つまり「ありのままの自分」がフューチャーされてばかりのこの映画ですが・・・・・・。なにかこの映画を「女性が、抑えていたものを解放させるための映画」みたいな捉え方をされてる人もいるようですが、見たらぜんぜん違いましたし。

いや、少しはそうだったかも・・・・・・いや、やっぱ断じて違うな。

確かに映画は、エルサが「隠しなさい」と言われ続けた自分の『力』を「私は自由よ~!」と、ドバっと解放するシーンが印象的ですが・・・・・・次の瞬間、「ああ、私はなんて愚かなの・・・・・・!」って、さっそく後悔をはじめますしね。

つまり、ただ「抑えていたものを爆発させろ! 世界に自らを重んじさせよ!」って、そんなバカなことをこの映画は言ってるわけじゃないのです。平和運動なんかでよく言われますが、暴力に対し暴力で対抗したところで、更なる暴力を呼ぶだけです。抑えていた力を突発的に解放させるなんてのも、言ってみれば暴力です。エルサはその力の暴発させる余り、国を滅亡の危機にしてしまったわけですから。

そして、この映画のエルサとアナは、言ってみれば少女の「内向的な面」と「外向的な面」の表裏を象徴しているように思われます。

もう一度いうと、エルサが少女の内向的な面を、そしてアナが外向的な面を現しているようです。

エルサが自分の世界を作りあげるのに必死だとしたら、アナは“一般的な”夢や理想を叶えるのに必死なのです。つまり、アナは「よくある・・・・・・」って言っちゃダメですが、「白馬の王子様願望」が強い、流行やなんかに乗りやすくては、自分を見失っちゃう・・・・・・そんな少女心を象徴しているようです。

僕は男子なのでよく分かりませんが、これまでのディズニー映画の刷り込みかなんかで、世の中には「白馬の王子様症候群(シンデレラコンプレックス)」なんてのもあるみたいですしね。どんなコンプレックスかというと、「いつか私の運命の人が私を迎えに来てくれる・・・・・・」と思い込んでは身近な運命に気付かなくなるような。もしくは、「この人が私の運命の人だわ!」って思い込むや、なりふり構わず、まるで雌牛の如く暴走しちゃうというような。

で、アナもまさに「白馬の王子様症候群」で、「パーティで素敵な人に出会っちゃったらどうしよう~」なんて道を歩いてるところで、まさに「白馬の王子様」がアナにぶつかってくるわけです。そして、歌って踊ってと楽しい時間を過ごしたあとに、突然結婚を決意しちゃう。けど、映画を見た方ならご存じのように、この王子様は言ってみれば「結婚詐欺師」なんですね。ただアナは・・・・・・もっといえば“多くの少女”は、自分の夢という名の「嘘(思いこみ)」で世界を見てしまっているため、そのことに気づけないわけです。エルサの城に着く直前、アナが果敢にもロッククライミングに挑むシーンがありますが・・・・・・あれも、アナは高い場所まで登ったと思い込んでますが、実は1メートルも登っていない。つまりアナは、思いこみが強く現実が見えていないわけです。

そして、そのことこそが、この「アナと雪の女王」の鍵なのだと思います。

つまりこの映画の核心は、「自らついている“嘘”から、少女自身を解放する」そのことにあるのです。

エルサは散々魔法を使ったあとにこう言います。

「解き方が分からないの!」

エルサもエルサで、自らの“魔法”に逆に翻弄されてしまいます。これも現代ではよくある光景で、まるで自分を世界で解放するために得た力(社会的地位や、鉄壁のそとづら)に、自分自身がいつの間にか振り回されているようです。

そしてアナは、エルサの魔法をハートに受けてしまい・・・・・・凍りつくハートをどうすれば? と、トロールの長老に相談をします。すると、長老は深刻な様相でこう言います。

「ハートを溶かすのは、真実の愛じゃ・・・・・・!」

まあ、そう言われても「ですよね」としか言いようがないありきたりのセリフですね。けど、少し考えると、このセリフには二重の意味が込められているのが分かります。

つまり、「真実の愛と共に、真実じゃない愛がある」ということです。

そして、これがこの映画の裏の核心部分になると思います。真実じゃない愛を信じたら大変なことに・・・・・・まあ言ってしまえば、白馬の王子様願望なんてのはもってのほかで、“自分に尽くすための愛”つまり「ありのままの自分」も、ここで無意識に真実じゃない愛に貶められているのです。

では、じゃあ一体なにが真実の愛なのか・・・・・・

それを存在として語っているのが「オラフ」ですね。

彼は、雪だるまでありながら、自分を溶かす夏を愛おしみます。そして、ピンチのときは「僕がオトリになるから逃げて!」と言い、アナが寒さに震えるなら自分が溶けるのも構わず暖炉に近づき火をおこす、言わば自己犠牲の塊のような存在です。

「真実の愛とは、自分より相手のことを想うことだよ」

つまり、ありのままの自分どころか、自分を犠牲にしろということです。ここが大事なのですが「自分を犠牲に出来る相手」こそが、本当の王子様だということです。「自分のために犠牲になってくれる相手」ではないのです。もちろんそれも「真実の愛」には変わりないですが・・・・・・でも、それならアナのハートはオラフやクリストフの愛で溶けているはずで、じゃあなぜ溶けないのかと言うと、その愛はアナから湧き出た真実の愛じゃないからなのです。愛を受け取るだけじゃダメなのです。愛を受け取るではなく、自ら真実の愛を生み出して、そこではじめてアナの魔法は解けるのです。

ハンス王子に裏切られたアナは、オラフの言葉を聞くや「私のために自分を抑えたクリストフこそ私の王子様だったんだ!」と、白馬の王子様とは真逆なクリストフに向かって吹雪のなかを走りだします。

クリストフは、彼が白馬じゃなく臭いトナカイに乗って登場するあたりに、夢の欠片もない、欠点だらけの現実の男性像を見ることが出来ます。

ただ、アナがクリストフに「私はここよ」と叫ぶ時点では、まだアナは愛は与えてもらうものだと思っている。確かに白馬の王子様願望は消え、現実的な愛に気付けるようにはなりましたが・・・・・・まだ自分自身が愛になってはいないのです。

そして、クライマックスです。ここで愛を知るための最後の試練が訪れます。

アナはクリストフを発見すると同時に、いまにも殺されそうなエルサを見つけてしまいます。アナは、クリストフに口づけされたら自分の命が助かると思っています。つまりこのシーンは、一見「王子様をとるか、姉をとるか」といった構図にも見えますが、実はそうじゃないのです。

本当は「自分の命をとるか、姉の命をとるか」という、究極の自己犠牲への問いがこのシーンなのです。

そして、アナは自分を捨て、エルサの命を選ぶのです。案の定、エルサは助けられたものの、アナ自身は凍りつき・・・・・・それを見たエルサが泣き崩れます。

「私のせいで死の途にあったアナが、私を恨むどころか、自分を犠牲にしてまで私を守ってくれた・・・・・・」

エルサは自分が愛されていたことに、ここでようやく気付きます。これまで自分の犯した罪(魔法)を背負い、傷つけないよう、まるでハリネズミのように人と距離をとっていたエルサが、このアナの捨て身の愛によって、「自分は許されている」ことに気付くのです。

そして、アナは魔法が解けます。これも一見、エルサの愛によって氷が溶けたようにも見えますが・・・・・・けど実は、アナ自身から生まれたエルサへの愛によって魔法が解けたのです。白馬の王子様から、身近な愛の気付きをヘて・・・・・・とうとうアナ自身が真実の愛となったのです。

もうアナは待ちません。最後にクリストフが「もう、キスしたいくらい嬉しいよ!」と言うと、シャイなクリストフにアナが自分からキスをします。

エルサも、まるで自らの心を溶かすように、世界の氷を溶かしはじめます。そしてまた昔のように城から出て、魔法を使ってアナや人々と関わることをはじめるのです。

・・・・・・これでストーリーはお終いです。

「魔法を解くのは、自分より相手を大事にする愛であり・・・・・・それによって人は自らを許し、自らもまた人を愛せるようになる」が、簡単に言えばこの映画のメッセージなのでしょう。

けど、ここは簡単にじゃなく、よくよく考えてください。

僕たちは大事な人を本当に自分から愛せているのかと。
自分はアナのように求めてばかりじゃないかと。
自分のプライドを捨てて、自分から相手に寄り添ったことはあるのかと。
「ありのまま」と言いつつ、本当は怖くて氷の城に隠れてるだけじゃないかと。
もしくは大事な人が氷の城に篭もってるときに、自分はそこにノックし続けることが出来るのかと。

そして、自分の夢(思いこみ)が本当に必要なものなのか、その夢で自分を騙していないかと、よくよく考えてみるべきです。

例えばこの映画にしたって、「ありのままが素晴らしい」なんて一言も言ってません。「男なんていらない」なんてことも言ってません。もしこの映画を見てそれを思うのだとしたら、それは見る人が自分の中にある夢や呪いを再生してるに過ぎません。心に巣くう悪魔に騙されているのと同じなんです。

物事をよく見てください。物事の真実を、よく知ろうとしてしていきましょう。

自分で自分を騙している限り、“本当に”人を愛することも出来ません。いつまで氷の城に閉じこもってる気ですか?