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あのハエは、なぜあの小ささで、愛を交わす相手を簡単に見つけられるのか

つれづれ

カレー屋でチーズナンを食べてると、その匂いに釣られたのか「小バエ」がふらふら飛んできた。
 
よっぽどの存在感じゃない限り、僕は虫で騒がない。むしろこのぐらいは「来客現る」程度のもので、テーブルが賑やかになっていいくらいに思ってしまう。
 
僕が気にせずチーズナンを食べていると、「小バエ」はテーブルに止まったり、ちょっとナンに近づいたりと、なにやら楽しそうに遊んでいるようだった。空調が直接あたるところでは吹き飛ばされたりして、しかしまた舞い戻ったりしての、ねばり強さも見せていた。
 
僕はチーズナンを一生懸命に食べていた。チーズナンを食べた後の腹のふくれかたは尋常じゃない。とくに最近僕は小食になってたので、いつにもましてチーズナンを頼んだことを後悔し始めていた。カレーセットのナンをチーズナンにするべきじゃないと、確か去年も思ったのに。

 

しかもこのカレーセットには「サモサ」という揚げた芋の塊までついている。芋なんて、腹を膨らますためだけにあるような食物だ。しかもそれが分厚い皮に包まれ油で揚がってるなんて、インドは正気じゃない。無理だ。無理。僕には無理。

 

そうして、いよいよこの店はお持ち帰りOKだろうかと考えはじめていると、先ほどの「小バエ」にふと目が移った。思わず二度見してしまった。顔を近づけてよく見てみると、そこに春があった。

 

見たままを言えば、その「小バエ」が、もう一匹の「小バエ」と合体をしていた。たった10分ほど、目を離した隙にこれだ。もはやこのテーブルでは、チーズナンを食べる僕より、この2匹のほうが幸せそうだった。

 

「しかし、いつの間にくっついたんだ。というより、もう一匹はどこから来たんだ」

 

その合体を見ながら、僕はふと考えた。これが人間なら分かる。なぜなら人間は大きい。的が大きいが故に、狙い打てば当たるのも理解できる。また人間は数も多い。探す手間がいらない。狙い打たなくても、とりあえず弾を撃てば誰かに当たる可能性がある。

 

しかし、「小バエ」はどうだ。なんたって彼らは小さい。的が小さいが故に、狙ってもそこに当てるのは至難である。また数も少ない。人間はそこら中に溢れてるが、「小バエ」は僕の知る限り溢れていない。僕からしたら、狙うも撃つも以前に、そもそも「小バエ」という的自体が見つからない。

 

しかも彼らは、それを人間の200分の1スケールで行っている。いわば彼らの住む世界は、人間の住む世界より200倍広い。200倍ということは、単純にいうと60平米のカレー屋が彼らには12000平米になるということだ。さらに彼らの行動圏は、人間の平面的なそれと違い立体的である。人間が地に足をつけざるを得ないのに対し、彼らは世界を3次元に飛び回る。いわば彼らの見えてる世界は、実質、人間の200倍どころの騒ぎじゃない。仏教でいう三千世界ばりである。

 

にも関わらず、だ。

 

そんな広大な世界に生きてるにも関わらず、どういうわけか彼ら「小バエ」は、まるでそれが当然のように的確に相手を見つける。しかもたった一瞬のうちに合体をする。

 

これが僕には不思議に思えた。婚活パーティーをするでもなく、なぜ点にも満たない相手をこうも自然に見つけることが出来るのか。

 

人間にとっての渋谷のような、「小バエ」のデートスポットが、見えない輪郭(たとえば匂い)を持って存在するのだろうか?

 

「春になり動けるようになった。動いていると良い匂いがした。良い匂いの場所に行ったら、かわいい相手がいた」

 

産卵期のサケが故郷の川へと戻るように、「本能」と呼べるものが「小バエ」を運命に引きつけているのだろうか?

 

つまり、好む季節という引力があり、好む場所(匂い)という引力があり、好む相手という引力があり・・・・・・「本能」がその引力を感じ取り、大きい引力からやがて小さい引力へと辿るように、その「小バエ」を運命へ引きつけているのだろうか。

 

だとしたら、彼らには大きい的も小さい的も存在しないということになる。大きな入り口が、ただ小さな出口へと繋がっているという、それだけということに。

 

そう思えば、自然というのは、おそらくそういうものなのだろう。まず「本能」があり、ただそれが自分の必要なものに引きつけられる。引きつけられるのだから、確率もなにも関係なく、ただ単純に出会いが起こる。いわば人間の目から見た奇跡が、ただ自然に起こるべく起こる。

 

人間も、もしかしたらそうかもしれない。計算や道理をもつことをやめたら、実は「本能」が、本人が気づきもしない的に自分を引きつけてくれるかもしれない。

 

僕は人の視線に敏感である。まったくヨソを向いてても、誰かが自分を見るや、すぐそれに気が付く。そして、ついそれを見てしまう。

 

もしかすると引力も同じで、それはある種の「視線」なのかもしれない。それは自分を見る何者かの目で、「本能」を凝らせば、人はおそらく、ありとあらゆる視線をこの世界に見つけられる。

 

そして、その「視線」のうちの一体どの「視線」が、自分にとって一番心地いいものなのか。それこそ計算や道理を超え、自分の本能は一体なんの「視線」に引きつけられようとしているのか。

 

なかには悪臭ただようような「視線」もあるかもしれない。あまりに匂いがキツいが故に、そこを見ずにはいられないという「視線」も、きっとある。もし計算が「本能」より優位なら、人は自らが心地いい匂いより、より匂いが強いほうへと引きつけられる。

 

小さな虫でさえ、自らが好む匂いに引きつけられるのに。だとしたら、人間は虫以下か。それが人間なんだろうか。

 

本当は、引きつけ合うのが当然なのだろうに。

 

愛し合う「小バエ」たちを見つめながら、僕はチーズナンを食べきることをあきらめた。