ストライクゾーン物語

前回のあらすじ。

 

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「よーし、今日もアウトローいっぱいに投げちゃうよー」と、今日も今日とてストライクゾーンぎりぎりにボールを投げてる男がいた。彼は、このきわどいコースにこの変化球を投げれるなんて、こりゃ西田局長もびっくりだなと探偵ナイトスクープに出る心配までしていた。
 
しかし、それはあくまで草野球、あるいはSNS野球盤という夢の世界なのだというのを彼はまだ知る由もない。
 
 
あるとき、調子に乗った彼は俗世間へと飛び出すことを決意。おらのアウトローは社会でも通用するぞと、自分アイランドからペットボトルいかだ(可愛いイルカのペイントが施されている)で出航。さあ、いざ資本主義餓鬼衆道野球の扉を叩かん・・・・・・としたら、あろうことかそこには審判がいたのだった。
 
 
そう、彼は審判相手に一度もボールを投げたことがなかったのだ。投げる相手といえば、いつでも自分誉めてくれるクマや、タヌキや、欲求不満の人妻ばかり。
 
まさかのまさかだった。
 
しかし彼はいつものようにボールを投げた。ストライクぎりぎりいっぱいに決まった!と思った瞬間、彼はいつものように自撮りをした。そして、イイネがどれだけ付くかという心配をし始めたそのとき、審判が叫んだ。
 
「既読スルー」
 
なんとストライクゾーンを外れたどころか、ノーリアクションの既読スルーをされてしまった。
 
そんな、あそこはストライクじゃないのか、アウトローいっぱいじゃないのか。彼は思わず、あの、すいませーん、いまのがストライクじゃないって言われても困りますーと駄々をこねた。散々にゴネた。このままだと泣き出して、最悪の場合デモをしたり、ハンガーストライキをしそうな勢いだったので、もう仕方ないなあと審判が言った。
 
「有名人がシェアしたらストライクにしてもいいよ」
 
 
 
・・・・・・ってのが前回のあらすじでした。
 
いや、それはそうと、世の中にはストライクゾーンが小さい人がいるんです。大きい人はまだいいんだけど、小さい人は、もはや手を伸ばしたら取れるやんってとこでも、ボールを取らない。しかもそれでどこ投げてんだと怒る怒る。
 
ほんと困りますなあ。ど真ん中だけの聖人野球がしたいのかしれませんが、だからといって聖人しか認めないというのはどうなのかなあ。
 
 
なんて話をしたいんじゃなく、そもそもに、みんなルールが違うんです。ストライクゾーンの広さは千差万別にみんな違う。あなたと僕のストライクゾーンは、それぞれの器の大きさなのか、質の違いなのか、こっちがストライクのつもりで投げたボールが、そっちからしたらデッドボールだってことが実によくあるわけです。
 
そんなわけで、僕は散々にデッドボールを投げてきたみたいで、この場を借りて、僕の渾身のデッドボールを受けたすべての人に謝りたい。どうもすみませんでした。
 
けど、僕のなかではそんな珍プレーもそれはそれでスポーツマンシップに乗っ取った絶妙なストライクなので、もちろんこれからも投げますし、なんならどうにかして、飛行機や新幹線のシートを後ろに倒すときのように、これからじわじわストライクゾーンを広げたろうと思いますのでどうかよろしくおねがいします。

 

始球式はじめました

「よーし、気が狂ったような文章を書きまくるぞー」
  
と思ってた矢先、「活元運動」ってな自分の身体をボキボキ調整するアオミドロの物真似みたいなことをしてたら、これが間違いで、身体の偏りが解消され文章を書く気がチーンと失せ、なんだか清浄な面持ちになってしまった。
 
 
てめえこの、ダンカンこのやろうって気分だったのに、とたん偏りが緩んで、ダンカンありがとうってな、そんな月の世界に帰ったかぐや姫みたいな、おほほほほになってしまった。
 
 
あああああ、しまったーーーーーーーーー。
 
 
というか、まったく偏りって大事やねえ。
 
身体と心はリンクどころか直結してるわけで、つまり身体に歪みや捻れなんていう偏りがあるから、心もそのように歪んで捻れて、人間を人間らしくしとるわけで。千差万別な身体の歪みが、そのままその人のあほでばかな面白い個性そのものなわけで。
 
いわば、「歪みが僕!」といって過言でないのに、なのに歪みをとったら一体僕になにが残るんだと・・・・・・
 
歪みが無くなったら、それこそ海老蔵ブログみたいな、ハートと音符の絵文字あふれる素敵な文章しか書けなくなるんじゃないかと、ああ考えただけでスリラー。
 
 
ともかく、歪みのない聖人になんてなりたくない。歪みを取るなんてもんは、まさに精神病患者に接種する抗うつ剤みたいなものだ。それはそれで悩みがなくなって良いような気がするけど、だけど同時に、その人だけが感じられた透明な光が、もはやその人に届かなくなってしまう。
 
 
そんなわけで、そこらに生えてる木も、みんな同じようにシャキーンとだけ生えてたらつまらんのです。大工さんからしたら、そんな木に巡り会えたら、うひょーってなもんだけど、これがもしその木と一緒に生きるとなると、歪んでたり穴があいてたりするほうがよっぽどエロい、っちゅうか、たまらんなあって、ほっぺたをすりすりしたり穴に棒を入れたくなるってなもんなわけです。
 
 
だから、歪み万歳というわけで、折れたり病気にならない程度に、もって生まれた歪み通りに、のびのび歪んで生きていきたい。
 
歪みが、ある一線を超えるとガン化したりするらしいので、その辺は絶妙なバランスでしこしこするとして。聖人でもなく、病むでもない、いってみれば病むラインをぎりぎり出るかどうかの、野球でいう、ストライクゾーンはアウトローいっぱいに入ったストラーイクッ!!くらいのとこを、これでもかこれでもかと攻めてきたいもんですな。
 
出来ればバッターが「いまのは入ってない」って本気で怒り出すくらいのアウトローいっぱいに・・・・・・
 
 
って、そう考えると、いまの世の中はみんな調整だ調整だってばかりでつまんないですね。
 
身体を心を整えて整えて、さあ、ど真ん中ストレート勝負よ!! って、確かにストライクを取ることは大事だけど、ストライクゾーンは広いんだからもっとギリギリいっぱい使わないと。そればかりだと、ストライク取る以前にそもそも野球する自体がつまらなくなる。
  
 
だから、もっとストライクゾーンぎりぎりいっぱいに・・・・・・
 
もっともっと危ない変化球で・・・・・・
 
 
ってしてたら、いつの間にかストライクにボールがまったく入らなくなったりして。投げても投げても、ボール、ボール、フォアボールって、ついにはアウトロー過ぎてストライクゾーンに人生がまったく戻れなくなったりして・・・・・・
 
もし僕がそうなったら、ああこれは始球式なんだと温かい目で、とりあえずバットは振ってくれる感じでお願いします。

UMA(未確認生物)現る

近所にオペラ歌手が住んでいるらしい。
 
 
なぜ「いる“らしい”」なのかというと、未だその姿形は未確認なのだが、時折、まるで生命エネルギーの発露もしくは発情期って感じの発声音が「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ、ほっ、ほ~っ」と近所中に響きわたるからである。
 
 
日が暮れ、空が鮮やかな紅緋色に染まり、胸から軽い空気が少しずつ抜けていくようなあのさむしげな時間帯に

 

「あーあーあーあーあー」

 

とドミソミド音階が鳴り響き、一体どうなってるんだこの世界はと僕を混乱に貶めるからである。
 
 
ともかく、近所にオペラ歌手もどきのUMA(未確認生物)がいるのは間違いない。そしてその鳴き声から推測するに、そのUMAは50代を過ぎたおよそ小太りな女性である可能性が高い。
 
 
まあ、とは言っても、べつに悪さをするわけじゃないし気にするまでもない。
 
朝、さあゴミを出しに行くぞというときに、背後からいきなり「ハレルヤ!」って挨拶されたら怖いなあとは思うけど、そんなこともないし。気づくと人のゴミを漁ってるとか、人の洗濯物を着てるとかだったら嫌だなあ引っ越したいなあと思うけど、そんなこともなく。
 
することといえば、時折なにかを受信したような「ほっ、ほっ、ほっ、ほ~っ」と仲間を呼ぶ挙動を起こすだけで、まあ実害はないからいいやと、そんなわけでこれまで真剣な探索もせず野生のまま放置をしていたわけですが。
 
 
これが今朝の4時に、突然とリオオリンピックの応援を始めたから大変です。
 
 
「え? 地震?」って思って目を覚ましたら、それ以上のとんでもないことが起きてたわけです。ただの「ほっ、ほっ、ほ~っ」とは比べものにならない情感豊かな咆哮が、まるでWifiかというくらい野を越え、山を越え、壁を越え、家で普通にテレビを見るよりも立体的なサラウンドで僕の耳に響いてきたのです。
 
そしてもちろん近所中にも「いけぇ~!」だ、「おしい~!」だ、「やめて~!」だ、「あっ、あっ、あっ、あ~~~っ!」だ、「あ~~~ん、もう・・・・・・」との声が響いてって、おいおいなんなんだこれは。
 
 
家の布団で平和に寝てたはずなのに、なのにいきなり起こされ、

 

「はは~ん。このオペラの人は、夜の営みもきっと声が大きいに違いない」
 
って、なんでこんなことを寝起きの瞬間に考えてるんだ僕は。ああ、ごめんなさい、ごめんなさい。たのむから早く終わってください。すいません、もう勘弁してください・・・・・・

 

と、布団の上でごにょごにょ念仏を唱えてたら「やったーーーー!!!!」という、花火でいう4尺玉がついに登場って感じの、一際どでかい咆哮爆発ののちに一瞬の静けさに包まれ、ふとあたりからそれまでかき消されてた爽やかな小鳥の声が聞こえてきました。
 
 
やったー、おわったーと僕も密かに拳を握りしめました。なんの競技か知らないけど、おそらく僕の渾身の応援が実って日本が勝ったのでしょう。

 

ああよかった。さて寝よう。おやすみなさい。
 
神さま、朝から恐ろしい夢を見ないようどうか僕を守ってください・・・・・・といってまた安らかに眠るはずが、なぜか目がギンギンに冴え、もう二度と眠れませんでした。

口癖が「地獄」

最近、口を開けば「地獄地獄」言ってる気がする。
 
 
「やあやあ、今日も暑いですなあ」
 
「ほんと、地獄のようですねえ」
 
 
という感じで、わりとほがらかに地獄を駆使している気がする。
 
で、このままだと「この際だし、ただの地獄だけじゃなく八大地獄を暗唱出来るくらいにはなっとこうかな」と、ユーキャンを開いて文部科学省認定の地獄検定試験の資料を請求しちゃう気がする。
 
で、試験にまんまと落ちて、こりゃやっぱワーホリして本場の地獄を学ばないといけませんなあとか言いだして、プロレスリングで地獄固め失神KOの後、イタリア在住のダンテさんと一緒に地獄に飛び立ち、そしてさっそく現地でアルバイト探しに勤しむも、
 
「いや~日本人のいる地獄はちょっと」

とか言って、アルバイトの選り好みをしてたらお金が無くなって、地獄から帰れなくなってブッダさま助けてじゃなくて。そんなわけなくて。
 
 
 
なんというか「地獄」が口癖になってる気がするんですよね。
  
で、それってなんていうか、自分で言ってて非常に怖いというか、もしかしたら末期なんじゃないかって、そんな気がするんですよね。
 
 
最初はたぶん、ほんの出来心だったんだと思いますよ。「いろんな言葉の頭に地獄ってつけると面白くない?笑」って感じで、小さい子がうんこだ雲母だと飽きずに言う感じで、地獄甲子園とか、地獄天然水とか、地獄南極物語とか、地獄おれのイタリアンとかって、目に入るものすべてに地獄地獄と付けてはうふふふと、心の中で密かに楽しむだけだったんです。
 
けどこれが、いつしか目に余ってきたというか、増殖するウイルスのように意識に浸食、暴走してきたというか、気付けば口を開けば地獄だヘルだと、まるでデーモン閣下じゃあるまいし。
 
 
ああ、「口癖は、ありがとうです」と胸を張りたい。胸を張って「ありがとうの魔法」とかいうワークショップをして、僕のほうが癒されたとかなんとか言いたい。
 
 
けど言ってみて、そのタイトルだけで、それこそ地獄のようにつまらなそうな気がして、そのつまらなさに思わず放屁なんて考える僕はもうダメかもしれない。
 
もう、どうしようもなく、つまらないばっかりだ。「ありがとうの魔法 地獄のワークショップ」なら、ちょっとは面白そうとか思うけど、問題の根本はそこじゃあない。
 
自分を含めたすべてをつまらなく思う、この死に至る病にどうにかして抗わなければ、いつ僕はつまらなさに押しつぶされ、地獄谷温泉での健康的な入湯自殺をブチ決めるか分かったもんじゃない。
  
 
故の、戦いである。
 
自分の度重なる失敗と絶望に抗わんとする、まさしくこれは戦いなのだ。
 
 
作戦名は「こぶとり爺さん大作戦」である。3日前に決まった。自分を取り囲む鬼どものことは忘れて、ただ踊りたい一心でレリゴーする単純明快なメガンテである。
 
というのも、もうそれっぽいことに飽き飽きなのだ。それっぽくしてる自分が、もはや肚の底から不憫なのだ。
 
もっと面白く生きたい。
 
僕のいう地獄は、つまりそういう意味なのだ。

 

 

夢地獄

夢の中でとんでもない本を読んだ。
 
普通、夢の中で本を読むと、読んでる最中にぐにゃあと本文が歪んだり、同じ文面が地獄のように無限に続いていたり、読もうとするたび隣の席のおばさんの存在感が異常すぎて集中できなかったりするけど、今回はまったくそうじゃなかった。
 
これがもう完璧に成立した文章で、読んでも音読しても、滞りなく美しく完成した文章としてそれが読めた。しかもトラックのタイヤくらい存在感のあるおばさんも邪魔に現れないし、夢としては前代未聞。なんと最後まで読めてしまった。
 
 
「これは奇跡だ!! この本のことを絶対忘れまじ! 覚えたまま、絶対現世へ連れて帰るぞ!!!」
 
 
というのは、夢を見ながら「これは夢だ」と気付いていたからで、だからこそ慎重に丁重に、天に延びる一本のクモの糸をたどるようにして現実世界へと持って帰ろうと僕は試みた。
 
言ってみれば、この「これは夢だ」という意識が一瞬でも切れたら、それはクモの糸が切れるのと同じである。糸が切れたら、もはや僕は地獄へ真っ逆様。地獄に落ちた僕は、もはや人間であることすら忘れ、そこに自生するオランウータンと一瞬にして同化し、ただ見分けがつかなくなるどころか、彼らと和気あいあいと繁殖行動を起こすかもしれない。
 
だから、ともかく意識を失ってはならない。夢に落ちてはならない。これはミッションである。まるでインディ・ジョーンズよろしく、夢世界の魔法のランプを現実世界に持って帰らねばならないのだ。
 
 
しかし夢の世界というのは、これが冬の日本海か、一人でのんびり温泉に入ろうときに年寄りに絡まれるくらいたちの悪いところがある。
 
強烈な嵐か、もしくは僕の気の小ささを利用した断りきれない昔話の相手か、あらゆる手練手管を使って、夢は僕の意識の糸を切ろうとするのだ。現実世界に、夢世界の魔法のランプを上らせないようにするのだ。
 
 
って、まったく、なんでそんなことをするのか。あほじゃないのか。
 
夢の世界は、僕をなんだと思ってるんだ。少しは僕を信用しろってんだ。核兵器のボタンを与えられたら「ウホッウホッ」と何の考えもなしにボタンを16連射するとでも思ってるのか。魔法のコンパクトが手に入ろうもんなら「テクマクマヤコンテクマクマヤコン、キムジョンナムになぁ~れ~!」で一瞬にして絶大な権力でも手に入れるとでも思ってるのか。
 
 
ふふふふ・・・・・・ってうそうそ。キムジョンナムになった妄想なんてしてません。ともかく僕は清廉潔白なんです。あらゆる欲望と、しがらみからもはや超越してるんです。そこんとこ分かってもらって、もう下手な試練とか辞めてもらっていいですかねえ。だって、これからはなんたってTPPの時代ですよ。もう関税なんか取っ払って、夢世界の消化し尽くした絞りカスじゃなく、そろそろ本物の黄金のほうを持ち帰らせてはいただけないですかね。ああ、そろそろ僕も魔法のランプが欲しいなあ~・・・・・・
 
 
 
としてたら糸が切れ、僕は「あ~れ~~~~~」と地獄へ堕ち、そこで自生するオランウータンと泥の中をスイミングしたり、うんこ投げ合ったりして仲良く暮らすことになり、そして気付けば布団の上でニコニコしながら僕は目を覚ましたのでした。
 
「あ、れ・・・・・・ここはどこ? さっきまで愉快な仲間と一緒に生を満喫していたのに・・・・・・?」
 
もはや本の記憶はありませんでした。いや、わずかにあるけど、もはやその本はオランウータン語に翻訳されており、泥だかうんこだかにまみれ、とても読めたもんじゃありませんでした。
 
 
「てか、本なのが悪い!! なんで本なんだ!! 次からは、映画にしろ映画に!!! 文字だけなんて、いま普通に読んでも忘れてまうわ!! もっとスピルバーグとか、デヴィッド・フィンチャーとかの巨匠に頼んで、一度見たら二度と忘れない感じの映画にしろや!!」
 
 
というわけで、自分じゃなく、他をどうにかして美味い蜜を吸おうという、こういう魂胆が下衆なんでしょう。重くて糸も切れるわけです。
 
こういうとこを少しずつ軽くして、夢の世界とのやり取りを今よりやりやすくしていかないとなあ。けど、やっぱ本はもう辞めてほしい。出来たら、こう、可愛い女の子の出る映像作品で、お願いします。

「ハウルの動く城」は今の時代そのものだなあという話

 

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魔法の世界に逃げ込んだ男の子ハウルと、仕事ばかりで心がお婆ちゃんのように干からびた女の子ソフィー。
 
この二人が出会って共同生活を送ってると、さて戦争という社会的な義務が発生し、二人はこの義務に立ち向かわざるを得なくなる。
 
義務から逃げ続けていたハウルは、ソフィーを守るため初めて自分から戦うことを選ぶ。孤独に干からびていたソフィーは家族を持ち、人と世界と関わるということを思い出す。
 
そして二人は傷つき・・・・・・ハリボテの城は壊れ、外面がすべて消し飛んだときに、ついに二人はなくしていた心を見つける。
  
 
 
 
・・・・・・ってのが「ハウルの動く城」の大ざっぱな話ですが、よくよく考えると、この話は今の時代そのものじゃないですか。
 
魔法の世界に逃げ込んだハウルなんてのは、まさにすべてをゲームとして捉える、ネットやオシャレやセックスの世界にずっぽしの現代男子の象徴なわけです。
 
心がお婆ちゃんなソフィーなんてのも、日常に忙殺された、孤独と虚しさを抱える現代女子の象徴です。
 
その現代人二人が、あるとき避けられない社会の荒波に出会う。言ってみれば平和ボケして病んでる二人が、戦争という超現実を突きつけられる。
 
この超現実は、たとえるなら震災なんかの自然災害とかもそうですね。思考という魔法で守られた世界をのうのうと生きていると、ある日いきなり超現実が向こうからやってくるというわけです。
 
そして、なすすべなく超現実を生きるほかなくなった二人は、必死に生きるということを思い出す。必死に生きることでこれまで閉じこもっていた自分の城から、実は自由に飛び出せることを思い出すのです。
 
すると、「ああなんだ、すべてはハリボテだったんだ」と気づいて・・・・・・
 
そして、忘れていた心や愛を思い出す。
 
(つまり、素直になれる。本音になる。なにかを気にして好きな人に素直に『大好き』と言えない人はまだ魔法にかかっているというわけ)
 
 
 
ちなみに映画には、魔法で「かかし」にされた王子がいましたが、これは僕らみんなにかけられている魔法です。外見にとらわれているというか。さらにいえば、よく分からずに始まった戦争の終わる鍵が、実は身近なところにあるという。複雑のようなみえて、物事は実はシンプルなんだという。
 
で、火の悪魔カルシファーは物質主義の象徴で、現代で言うとこの原発スマホでしょうかね。その火の悪魔の力でハリボテの城が作られていて、僕らはどっかでその悪魔と取引きをしているというね。
 
 
まあこの世界は、思えばとんでもなく魔法が幅を利かせた世界ですな。
 
いやいや。僕も魔法を解こうとするじゃなく、魔法をかける側に回った方が楽に生きられそうなのに、まったく、なにしてんだろうな。

誰も見てないから書ける「シン・ゴジラ」の尻尾のこと ※ネタバレレビュー

庵野さんの「シン・ゴジラ」を見てきました。

 

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庵野さんといって思い出すのは、僕が数年前に劇場でエヴァQを見たときに、その途中から電撃的な尿意におそわれ「ああ、もう我慢できん!」とシートを緊急脱出したが最後、戻ってきたらカヲルくんが死んでて、なぜか一面砂漠のシーンになってて、「え、これ同じ映画ですか?」とアホな顔してシートに戻ったことを思い出します。
 
で、エンドロールとともに「普通、あの大事な場面でトイレいく?www」との誰かを嘲るようなカップルのひそひそ話が聞こえてきて、「もう二度と映画前にカフェインを摂取するのはやめよう」と、こぶしを固く握り強く誓い・・・・・・
 
 
 
その誓いが生きて、今回は万全の態勢で最初から最後まで「シン・ゴジラ」を見ることが出来ました。ので、ここに簡単な感想と報告をさせていただきとう存じます。
 
もちろん「ネタバレ」になるので、見てない人は見ないでください!!
 
 
ーーーー
 
 
というわけで、まず「ゴジラとはなにか?」という話です。
 
いや、むしろゴジラという映画は、実は「ゴジラとはなにか?」だけの映画なんじゃないか。
 
 
 
というのも、これが実は深い話で、これを語るに世の中には「ゴジラ論」というものがあるみたいです。そこには「ゴジラとはなにか?」ということが、1954年当時の初代ゴジラ制作者の話からルーツを辿って事細かに書かれているわけですが・・・・・・
 
それでいうと、「ゴジラというのは、先の太平洋戦争の戦没者の霊の集まり」なんだそう。
 
その戦没者の霊の固まりが、1954年の、戦後復興して「アメリカ文化いいね!」とかいって楽しそうにしてる日本人に「この野郎、おれたちはなんのために死んだんだ」って復讐しにいくのがゴジラの本当の話なんだそうです。
 
 
つまり、いってみればゴジラは「タタリガミ(祟り神)」だという。
 
 
もののけ姫の最初のシーンなんかに出てくるあれです。復讐のために村を襲う。自分を知らしめたくて人を襲う。だからわざわざ人の多い東京へと向かってくる。
 
 
そして・・・・・・その戦没者のタタリが、時を経て、いままた日本は東京に上陸するわけです。この安保法案だなんだとやってる、いまの日本に。おい、忘れてんじゃねえぞと、忘れ去られた過去の亡霊がやってくるわけです。
 
 
 
しかし、それは一面で、それがゴジラの原点で性格ではあるけど、今回のゴジラはそれだけじゃないのです。なんたってシン・ゴジラですから。ゴジラも今までのゴジラじゃなく、リニューアルした新しいタタリを背負っている。
 
 
その新しいタタリというのが、例の震災と原発事故ですね。
 
 
「忘れ去られた震災と原発事故」と、もっといえば「それで亡くなった人たち」を背負ってやってきたのが今回のゴジラなわけです。(最初ゴジラが上陸したときなんてのは、海へ戻ったあとのガレキ含め、まさに津波そのものですしね)
 
 
 
で、この映画の本当にすごいのは、それで首相を含む官邸の11名を殺すまでやっちゃったところです。映画の中で復讐しちゃった。復讐完了しちゃった。一見さりげなく殺してますが「それやっちゃうなんて、庵野さん魂削りすぎですから!」ってなもんです。
 
ある意味、これで「シン・ゴジラ 完」でもおかしくない。
 
ゴジラも、「もうやることやっちゃって、これからどうすんの?」という感じで寝ちゃったりして。
 
 
 
すると、ここから「シン・ゴジラ 第二部」が始まるわけです。ここからは、打って変わって、こんな日本になったらいいなあという夢と希望の物語です。
 
新しい若くて責任を取れる政府が出来て、それぞれが自己犠牲をいとわずに、覚悟を決め、己の魂を削ってゴジラへと立ち向かっていくのです。
 
無人の電車が突っ込んでいくシーンなんてのもありましたが、あれは僕ら庶民の象徴です。いつも乗ってる、言ってみれば僕ら庶民の魂を乗せた電車がゴジラの足下を揺るがすわけです。たとえ庶民でも、覚悟を決めたらゴジラを転ばすことくらいは出来るという。
 
 
それで、もはややることのないゴジラはものの見事にやられ役と化し、日本がその総力でもって「鎮まりたまえ、鎮まりたまえ」と八塩折(ヤシオリ)の酒で荒ぶる神を鎮めたまうという。。。
 
で、「日本もやれば出来るんだ!」で「シン・ゴジラ 完」・・・・・・の前に。
 
 
 
ラストのラストに、凝固剤で固まったゴジラの尻尾がズームされるというシーンがあります。
 
 
それも無音で。このときはスクリーンどころか、このシーンでは観客席からも音はしません。すべての観客が、まるで魔法をかけられたように静まりかえってゴジラの尻尾をただ見るのです。そこに一体なにがあるのかと見るのです。
 
 
で、僕の思うに、このシーンこそが「シン・ゴジラ」で庵野さんが一番描きたかったもの。もっといえば、庵野さんが一番みんなに見てほしかったものがここに描かれてるのです。
  
 
このシーンのことをネットで調べると「巨神兵だ」とか「子ゴジラだ」とかいろいろあるけど、このシーンはそんなもんじゃないのです。なんたって僕は劇場の最前列で1人で見ましたからね。よく見れば見るほど、そんな程度のもんじゃない。
 
 
じゃあ一体なにが。

一体なにがゴジラの尻尾に描かれているのか・・・・・・というと。
 
 
 
あれは「人間の死体」です。
 
たぶんそれで間違いない。庵野さんは蛍の墓のあれをやりたかったんだと思う。誰も描けない、虚構を超えた現実を描きたかったんだと思う。
 
震災で亡くなった人。原発事故により亡くなった人。
 
テレビで放送されない最後のものを、庵野さんは偽りなく最後に描きたかったんだと思う。それがおそらく本当のゴジラの尻尾・・・・・・。
 
 
ああ庵野さん、あなたはなんと正直な人なんですか。