24時間テレビ「童貞は地球を救う」

ー前回のあらすじー
 
 
21歳の童貞が、童貞から僧侶へのジョブチェンジを模索。しかし、冒険の末にたどり着いた寺院は、すでに闇の支配下となっていた。そこで闇の魔法、まばゆく光り輝くベンツに目がくらんだ童貞は、混乱、脱糞のステータス異常を受け、そのまま死亡。と同時に、童貞の宝である「純粋なハート」を失った。
 
しかし、復活の後、東京砂漠をさまよう童貞の前に、突如として怪しい賢人が現れる。そしてその賢人は、童貞にこう言ったのであった。
 
 
「すごい和尚さんを知ってるよ」
 
 
ーーーーーー
 
 
というわけで、純粋なハートを失った童貞こと僕は、そう言われてさっそく穿った質問をした。
 
 
「その人は、裏でウインナー食べないですか?」
 
「ウインナー? ・・・・・・でも、僕が行ったときに出た弁当には、お肉は入ってなかったな」
 
 
童貞の性質に、思いこみが激しい、一度そうだと思ったことをこの世の全てに適用するという悪いものがあるが、それが出てしまった形である。
 
また、童貞は全体的な印象を、一部に集約して心に焼き付けるという節がある。どういうことかというと、たとえば両親のセックスを見てしまったときにタバコの臭いがしたら、ああタバコは不潔なものだと一生タバコを憎むのである。
 
 
そういうわけで、童貞の僕には、ウインナーがダイナマイトに見えていた・・・・・・って、どんだけ童貞の解説に文字数を費やすんだ僕は。
 
 
 
というか、もしかしたら感づいている方もいるかもしれないが、実はこれを書いてるいまの僕は、童貞崇拝・・・・・・いや、童貞回帰論者なのである。
 
 
そしていま突として、「書きたい、童貞について書きたい!」と情熱が溢れ出たというか、なので申し訳ありませんが、これからの文章を急遽「世界の中心で童貞を叫ぶ」として捧げたいので、和尚さんなんちゃらの話は次回にします。はい。
 
 
 
というわけで、ああ、童貞はすばらしい。童貞の世界は、言ってみるなら、いま話題の「新海誠の世界」である。戻れるなら、いま一度、あの白内障かのようにキラキラ輝く、自己内省の多い世界に戻りたい。いま一度、自分本位の善に包まれ、そして寂しさと豊かに触れあえる僕に戻りたい。
 
 
けど、ダメなのだ。一度、童貞村を出た者は、その楽園から亡命した者と見られ、二度とその楽園の地を踏むことは許されない。そして、楽園の外を彷徨い、もはや一人では満たされなくなった魂の欠乏感を満たすため(慰めるため)、自らが安らげる温かいオアシスを追い求めるのである。
 
 
 
そして、オアシスを追い求めたとて、その道のりが困難であることは言うまでもない。運良く、最初の一歩目が運命のオアシスだったという輩もいるが、それは嘘か、もしくは新海誠の世界である。なめとんのか。(羨ましい)
 
 
だって普通は、最初の一歩は、オアシスどころか沼だ。
 
沼にハマって、ハマって、ハマって、底なし沼でドロドロである。
 
 
で、ドロドロになったところで、今度は逆に、透き通った泉を汚しはじめることをして・・・・・・つまり、いまや童貞村の外の環境は、そういうドロドロな、美容師や、バンドマンやら、ユーチューバーのせいで日に日に汚染されているのである。
 
 
 
ああ、まったく嘆かわしい・・・・・・というか、まあそれも自然界のありようなのだ。弱肉強食もとい、これで汚れる人もいれば、汚れない人もいる。
  
  
いくら沼に溺れようと、沼に染まらなければ、その人はその人だ。
 
また、たくさんの沼に染められたら染められたで、その色彩は神秘的な美しいものになるかもしれない。
 
 
 
けど、汚れるものは汚れる。汚れの原因は、沼にあるのではなく、自分自身への嘘にある。嘘に身を包んで沼に入ると、人は自ら傷つき、その傷より泥が入るなり膿んでいく。嘘とは、自分が自分に負けていくことだ。
 
 
 
そんなわけで、童貞村から飛び出した者は、困難伴う旅路を行くのである。
 
素直に一生安らげるオアシスを見つけるか、それとも何かに取り憑かれたように沼という沼を渡り歩くのか、はたまた自らも傷つけながら透き通った泉を汚し歩くのか。
 
 
けど、これでいいのか? 旅するものの話だけでいいのか?
 
このままだと、やはり環境が悪化の一歩をたどるのではないか?
 
沼は、もはや泉のようなその透明さを取り戻すことは出来ないのか?
 
 
 
いや、僕は知っているぞ!!
 
童貞が、最初の一歩として入った沼が、美しく透明に戻っていくことを!! 分かりやすく言うと、人生に疲れ果てた女子が、童貞と付き合うことでその傷を癒していくのを、僕はたくさん見てきたのだ!
 
 
つまり童貞の純粋さが、まるでEM菌のように、沼と化した水質を美しく浄化させていくのである!!!
 
 
 
そう、童貞はすばらしいのだ。
 
 
偉人でいえば、吉田松陰や、宮沢賢治は童貞である。
 
漫画の主人公で言えば、ルフィも、桜木花道も、孫悟空は違うけど、でも童貞みたいなもんである。
 
 
いまの時代に問題があるとするなら、それは童貞を大事にしないことにある。昔の時代は、男が童貞を卒業するときに、年上の女性に筆おろしをしてもらうという文化があった。
 
けどそれは、童貞が男になるという反面、女性が童貞に癒されるという面もあったのだ。
 
 
 
しかしいまの時代は、童貞を童貞村に閉じこめるという時代になってしまった。もっといえば、童貞が食い物にされる時代になってしまった。
 
いかん。童貞は尊いものなのだ。AVを見過ぎちゃいかん。アイドルにハマりすぎてはいかん。エネルギーを吸われるな。一人の世界に閉じこもってちゃ勿体ない。
 
 
童貞には、世界を美しくする力があるのだ。殺伐とした現実を、新海誠のように、光瞬く透き通った美しい世界にすることが出来るのだ!
 
 
 
しかし、いまの世の中の有り様を見るや、ただの童貞だけではもはや手遅れかもしれない。
 
童貞のエネルギーが、日に日に秋元康に吸われていく。いまや世の中は、エネルギーを無くした童貞ばかりというか、いまの世界にこそ、フォレスト・ガンプのようなウルトラ童貞が必要なのだ。
 
 
 
そんなわけで、僕は考えた。
 
この世界のために出来ることはと、一生懸命に考え、そしてこう思い至った。
 
 
 
僕はいま、新しい形の童貞になりたい。
 
言ってみれば、普通の童貞が、ただの童貞村の住人ならば、僕は童貞村を飛び出した旅路の果てに、自分の手による「シン・童貞村」を作ろうというのである。
 
つまり、普通が受動的童貞だとしたら、僕は能動的童貞になろうというのだ!
 
 
 
どんな女性の心にもお姫様が眠っているとしたら、どんな男の心にも童貞が眠っている。そして、なにより僕は、普通男子より、ひと一倍童貞ポテンシャルが高い。さあ、その長く眠りについた童貞の心を、いま一度、呼び起こすのだ。
 
いま一度、おれの童貞よ蘇れと、我が心の奥に住む童貞こと、ケンシロウを復活させるのである。ビンビンのラオウから、ユリアを守れ、ケンシロウ
  
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出家したかった童貞の物語

10年前。
 
つまり僕が21歳、精神世界にまみれて9年、ベジタリアン歴4年、占い師歴3年、初めての恋から9年、しかし童貞歴21年、しかもオナ禁歴3年、のころ。
 
 
このころ、僕は本気で出家したいと思っていた。
 
 
 
って、最初の自己紹介が絶望臭を醸し出しすぎてて「まあ、そうなる気も分かるよ笑」って読む人に思われてる気がするけど、いやいや、べつにそのせいではありません。たぶん。
 
 
なんだろうか、ひとえに純粋だったのでしょうか。出家して、偉い人の弟子になって、修行して、かめはめ波が打てるようにでもなりたかったのでしょうか。童貞だし。
 
 
 
ともかく、そんなんで僕は偉そうなお坊さんを捜して、日本をぶらぶら旅していた。
  
一時期、縁あった和歌山の寺に身を寄せたが、そこは有名すぎて、観光地過ぎて、理想と現実のギャップに居たたまれなくなってレリゴーしてしまった。
 
馬鹿な童貞にとって、理想が打ち砕かれたのはつらかった。寺に入って、よーし今日から寺で修行をがんば・・・・・・と思った矢先に、その寺のお坊さんたちが朝食のウインナーにケチャップを大量にかけて食べてるのを見て、あれ? と目の前がアメリカンになった。
 
 
こんなはずじゃ・・・・・・と僕は数ヶ月の後にその寺を出て、途方にくれた。
 
寺っていっても、みんな裏でプリプリのウインナー食べてるんじゃないの? と、それまで純粋に輝いてた目が、お坊さんのしてる腕時計や、乗ってる車を、穿った目で見るようになった。
 
 
しかし、そんなあるとき、東京で不思議な人に出会った。
 
その人は、ワークショップも開催するライターさんで、これが希にみる聖人のようなだった。その人は、僕の童貞特有の小さなボソボソ声で言った「修行したい・・・・・・」を見事に聞き取ったかと思うと、それまでの声よりトーンを落とし、こう言った。
 
 
「すごい和尚さん知ってるよ」
 
 
 
え? お坊さんじゃなく、和尚さん・・・・・・??

ウインナー食べない? もう、和尚って、その響きだけでもすごそう・・・・・・。
 
 
僕はどきどき期待を膨らまして、その人の話に聞き入った。
 


 
ーつづくー

整体の元祖。野口整体とは…なんてね。

二本足の鶏は、それが生きてるうちは自由に立って歩けるのに、それが死んで剥製にすると、なぜだろうか二本足ではどうにも立たない。
 
生きてるときと、姿形はまったく同じなのです。なのに死んでしまうと、もはや二本足では自立出来なくなってしまう。
 
こりゃダメだってんで、仕方なく、つっかえ棒をする。つっかえ棒をたして三本足にし、それでようやく生きてたときと同じように剥製の鶏は立つことが出来る。
 

  
人間も同じで、死んだらそれを二本足で立たせるのは難しい。
 
じゃあなぜ生きてる鶏や人間が二本足でたてるのかというと、生きてる鶏や人間には、目に見えない三本目の足があるのです。
 
その三本目の見えない足が、人間を人間として立たせている。
 
 
 
その三本目の足とは生命そのものなのです。生命が生きたいとする、その生の要求こそが、人間を立たせる三本目の足なのです。
 
 
 
そして、この目に見えない三本目の足を相手にするのが、我々の操法野口整体)なのです。
 
 
 
目に見える二本足を、そのまま相手するのではダメなのです。
  
お腹が痛いといって、じゃあお腹を切ればいいかと言ったら、それは機械を修理するのと同じです。
 
お腹が痛くなるのは、お腹を痛くする生命の要求がその人の中にあるからなのです。そこに我々は手をつけるのです。お腹が痛いというからお腹に手をつけるじゃ、それは素人なのです。
 
 
その人の、目に見える痛みや病いを正すのではなく、その人の、目に見えない生命の姿勢を正す。
 
 
我々は治療をするのではなく、その人の生きようとする力、自分自身で治ろうとする力をただ引き出すことをするのです。それに勝る薬はないのです。
 
 
 
ーーーーーーーー
 
 
ってことを、たぶん野口晴哉先生なら言うんじゃないかと、思い出したり、想像しながら書いてみた。
 
 
このごろ「あなたがやってる整体ってのは、どんなもんなの?」と聞かれることが多いので、まあ、大まかにいうとこんな感じでしょうか。原理主義的というか、たぶん、ちまたの野口整体をやってるって人たちとも、かなり違うかもしれません。(うちの先生は、まわりで野口整体って看板出してるところを詐欺師呼ばわりしてるし)
 
 
ただ、目指すのはそことしてやってるけど、病んでる場所を見つけると、やはりまだ病んでる場所が気になってしまう。そこを押さえたら治りそうだとか思ってしまう。治したいとか思ってしまう。
 
 
まだまだ未熟きわまりない。
 
 
ちなみに三本目の足というのは、いってみればビンビンってことです。
 
「人をビンビンにすることこそが、我が整体なり・・・・・・」って、いつか言い出したいもんですなあ。

ビンビン古事記物語

Facebookに載せた文章を、このごろはブログにも載せたりしている。
 
 
すると、ブログにはアクセス解析なんて機能があって、どの日に、どんだけのアクセスがありましたよこの人気者っていうのが分かるようになってるんだけど、
 
これが不思議なことに、5日前のアクセスが、なぜかその日だけグーンと伸びるという事件が起こった。
 
 
 
はてさて、5日前・・・・・・。
 
べつに自作自演したとか、市川海老蔵をまんじゅうにして食べましたとか、たこやきを落としたと思ったら市川海老蔵でしたとか、そんなことをした覚えもないのに一体なぜ・・・・・・。
 
 
が、その日の文章を見て、すぐ合点がいった。
 
 
 
そう、ビンビンである。
 
その日の文章で僕は、北斗の拳ラオウ様はビンビン大明神って感じで、一回の文章に15回も「ビンビン」と言ったのだが、つまりそれである。
 
 
みんなビンビンになりたいのだ。妖怪人間の「はやく人間になりたーい」よろしく「はやくビンビンになりたーい」者たちが、このラオウ様のエレクトエネルギーに吸い寄せられるようにして集まってしまったのだ。
 
 
  
そうかそうか。みんなビンビンになりたいか。
 
確かに僕の周りでも、彼がノットビンビンで、まるで天の岩戸でも閉じられたかのように世界が闇になってしまった女性が数多くいる。
 
いや、事実、ノットビンビンが一種の引きこもり現象だとしたときに、それはまさに神話の天の岩戸隠れそのものといって過言ではない。
 
 
 
ちなみにいうと、いま僕は、いたって真面目である。
 
いたって真面目に、ノットビンビンがどれだけ天の岩戸隠れなのかを言うと、ノットビンビンとは、つまり陰と陽が交わることを拒んでいるという状態なのだ。
 
どういうことかというと、万物は、陰と陽が交わることではじめて育まれる。陰と陽がそれぞれ旺盛にバランスよくしてるだけじゃダメで、それをつなぐビンビンがあってこそ、はじめて世界に調和が保たれるのである。
 
 
 
古代中国では、ビンビンのことを道(タオ)と呼んだ。陰と陽を繋ぐ道、それはすなわち、ビンビンのミルキーウェイに他ならない。
 
 
天の岩戸隠れとは、その陰と陽を結ぶミルキーウェイが、まさに遮断された状態なのだ。男が男の世界に篭もり、女が女の世界に籠もる。照らす者の光が、照らされる者に届かない。自分の姿が、もはや鏡に写らない。
 
そしてそうなったときに、世界はお互いをつなぎ止める接着剤を失ったと同じ状態になり、ボロボロこぼれるように、ゆるやかに崩壊をはじめるのである。
 
 
 
つまり、ノットビンビンとは、世界の終わりの始まりなのだ。
 
この昨今の二極化は、お互いが内に引きこもった、まさにビンビンを失いつつある世界の姿なのだ。
 

  
としたら、これは大変だ。一刻も早く、ビンビンの天の岩戸開きが必要じゃないか。さあ、祝詞をあげよ。ビンビンの大御神出現祈願の祝詞をあげよ。

さあ舞い踊れよ、アメノウズメ。自らが女性であることを忘れ、一心不乱に舞い踊れ。自らを忘れ、世界の壁を溶かしたもれ。恐怖を越え、八百万のすべてをまるく一つに納めたまえ。
 
高天原に笑いが咲く。神々もいまや自らを忘れた。
 
天の岩戸が少し開く。大御神が鏡を見る。照らす者の光が、照らされる者についに届く。自分の姿を、ついに陰の世界に見つける。あなたのなかにわたしを見つける。
 
愛おしくなる。尊い神はわたししかいないと思ってたのに、ああ、あなたもなんて尊い。なんて愛おしい神よ。
 
そして、ついに天の岩戸は大きく開いた。光が天の岩戸を押し開き、光と闇がひとつとなり、二つの世界をひとつに結んだ。
 

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モスバーガーは、あっちの世界の入り口

「ここで働かせて下さい。」と書かれたTシャツを着てる初老の男性が、モスバーガーで、あごに手を当て首を傾げている。さらには、たまに斜め上を見上げ、ぼーっとなにかを考えている。
 
 
 
これは面白い。なんという圧倒的な存在感。一目見て分かってるのに、何度も何度もその胸の文字に目がいってしまう。「ここで働かせて下さい。」って、千と千尋の神隠し・・・・・・にしては初老過ぎる。ドキュメンタリーX過ぎる。
 
思わず、この初老の男性が、油屋で働いてるところを想像してしまった。風呂桶で滑って、後頭部を強打するのである。
 
 
ああ、心配だけど、そうなってほしい。後頭部を打って欲しい。
 
 
 
というか、ただの初老の男性が、Tシャツ一枚でこんな想像力かき立てられる存在になるとは。これぞまさにアートじゃないか。これこそが、昨日言ってた、イデアが顕現されたということじゃないか?
  
 
意識では思ってないけど、心の奥の奥で思ってることが顕現される。
 
これがイデアの顕現であり、アートである、としたら。
 
 
おお、たとえるなら、人にあだ名を付けるというのも、いってみればアートそのものじゃないか。
 
 
 
以前、有吉弘行さんのラジオを聴いたときに、かの武田鉄矢さんのことを、「赤のきつねと、緑のたぬきを食い散らかす、茶色いオランウータンこと武田鉄矢さんが・・・・・・」というふうに紹介していたが、これはまさにイデアの顕現。聞いた瞬間にイメージが洪水のように溢れる、なんと芸術的な人の紹介の仕方だろうか。
 
 
そうか、あだ名か。笑いもアートと同じ、イデアなのか。
 
 
そうと分かれば、僕も人にあだ名をつけたい。
  
 
さて誰にしよう。出来たらもう死んでる人がいいな。というのも以前mixiをやってたときに、木村カエラを、「首の太い木村カエラ」と言ってたのを熱狂的なファンに見つかって、あやうく刺されそうになったことがあるからね。
 
 
というわけで、よし、アレクサンダー大王にしよう。
 
では、アレクサンダー大王のあだ名は・・・・・・
 
 
 
 
「Gカップ」
 
 
  
うーむ。。。確かこんなことを、中学生のころにもやっていたような気がする。。。ああ、なんだか身体が寒くなって眠たくなってきた。もう秋ですね。

美しさってなんやろね

 

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点と点があると、その間の空白に線を引きたくなるのが人間ってもんです。
 
というか、線を引きたくなるじゃなくて、無意識が見えない線を自動的に引いちゃうんでしょうな。人間の想像する本能というか。もっといえば無意識が、その空白に線を引きたくて引きたくて仕方がない状態になるというか。
 
だから実線じゃなく、その無意識が作る目に見えない線で絵を描けたら最強に違いないって思うけど・・・・・・
 
意識は見えないけど、無意識が見ている線を表現したらかなり強そうな気がするけど・・・・・・
 
 
 
ただ、それをいうと、表面の点と点という目に見える象徴だけじゃなく、裏面の象徴みたいなもんも考えなきゃいけないんでしょうね。
 
いわゆるレイヤーっていうんですか。
 
ああいうので、単純に描かれる表面的な階層の奥の奥に、それこそ個人の想像力を超えた黄金比やら、もっといえばあっちの世界のなんかを表現できたら、これも間違いなく強い気がする。
 
 
なんて考えてると、美しさっていうのは外にあるもんじゃなく、その人の中にもともとある、美しさのイデアを引き出すってことなのかなーとか思えてくる。って、そんなことを誰かも言ってた気がする。
 
 
 
簡単にいうと、美しさとは、ある種のデジャブなんですかね。
 
美しさとは、見たこと無いけど、なにか見覚えのあるものによって僕らの中から現れる感覚なのでしょうか。
 
 
でも、だとしたら、ちょっとつまんないなあ。
 
 
グラビアアイドルが、カメラマンの、そうそうそう! いいよ、いーよ! って欲しがる声に自分をハメてくような感じで、なーんかなあ。汚れちゃうようでやだやだ。
 
 
けど、もし、まだ人類が誰も発掘できてないデジャブを発掘出来たら、それはそれで、ちょっとは面白いような気がする。
 
 
きっと世の中にある、大ヒット商品! みたいなもんは、その誰も発掘出来てないイデアに少し触れてるから、みんなが熱狂するのかもしれない。
 
 
未発見の黄金比をついに発見! みたいな。って錬金術か。
 
 
まあ、そのためには自分が、そのデジャブを自分の中を深く潜って見つけないと。自分のなか、生命の奥に眠る、誰も見たことない黄金比を見つけられたら、それはそれで。面白いかも。
 
 
だとしたら技術ゼロでも、この世界で僕みたいなのにも出来ることが少しはありそうな気がする。
 
糸井重里がいくらプロの力を使っても見つけられなかった埋蔵金が、もしかしたら、ここ掘れわんわん言うポチの声で、あほな僕でも見つけられるかもしれない。
 
 
って、花咲かじいさんって、実はそんな話だったのか。
 
 
あほだからこそ、犬のいうことを信じられるっていう・・・・・・って、そう思えば、いまの僕はまさにそれじゃないか。そこにお宝があるから! じゃなくて、心の中のわんわんいうポチに従って、ほっほっほって、なにも無さそうな場所にただ穴を掘ってるというか。
 
 
まあ、けど、どうなんだろ。犬の声が聞こえる限りは掘ってみますか。

 

ビンビンの下駄

昨日の文章に急にコメントがいっぱいついたんですが(Facebookにあげたらついたんです。ここにはゼロ)、あの、みなさん、もうちょっと考えてはくれませんか。
 
てのも、僕は繊細なんです。下品だけど、趣味は石拾いなんです。かわいい石を拾っては、この石の顔はここかなと、ほっこりしちゃうような人間ですよ。
 
そんななのに、いきなりあんなコメントが来たら、もうタマちゃんですよ。多摩川のタマちゃんですよ。最近テレビ見てないからこんな喩えしか思いつかないタマちゃんだけど、急に名前付けられて「タマちゃ~ん」って囲まれたような、そんな気分ですよ。
 
 
ああ、こんなにたくさんのコメントに返信してたら、僕のルーティーンが爆発しちゃう・・・・・・
 
ってな感じで、僕にはちょっと自閉症的なとこがあるので、そのへんこう、野生動物や、芸能人の自宅を見守る感じで、たとえば一つの記事につき3コメントくらいが理想的なので、これからはそれでお願いします。
 
 
 
・・・・・・ってのは、まあ冗談ですけど、とりあえず昨日書いたことについて、もうちょっとだけ書きます。
 
 
僕らは、自らの目線を変える下駄を履いて生きているって話で、その下駄のひとつにお酒があるってことを昨日は書いたんですが。
 
 
もし下駄って言い方がピンと来ないってんなら、一種の燃料か、もしくは、まむしドリンクみたいなもんだと思ってください。お酒を飲むことで、ブースター装置が発動しますよみたいな。まむしドリンクを飲むことで、あなたビンビンになりますよみたいなって、もっと分かりづらいか。
 
 
まあ、ともかくお酒は物理的に人の脳に影響を及ぼすわけですよ。大脳を麻痺させ、その人の認知能力になんかしらの変化をもたらすわけです。
 
これを、まむしドリンクでいうと、まむしドリンクを飲んでビンビンになった人は、それまでのビンビンじゃなかったその人とはまるで別人なわけです。ビンビンな人は、もう見える世界が違うのです。自信に満ちあふれ、自分がまるで夜の帝王にでもなったかのようになって、顔に似合わない北斗の拳ラオウの台詞なんかをついぞ口走ったりしちゃうのです。
 

 

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つまり下駄というのは、僕らが自分自身をどれだけビンビンにさせて生きてるかという・・・・・・って、いよいよ自分でもビンビンビンビン言い過ぎて、こいつ頭おかしいぞと思えてきた。
 
 
 
まあでも、ここまで来たらと身を切り刻んで下ネタで話を続けると、じゃあですよ。
 
じゃあ、僕らがまむしドリンクを飲まずしてビンビンになるのは、一体どんなときなのか? これが問うべき根本です。みなさんよく考えてくださいよ。僕らはいかにしてビンビンになるのか? と。
 
 
 
で、それは、この世界に触れたい存在があるときです。いわば欲しいものが、関わりを持ちたいものがあるときに、人はビンビンになる。これがつまり下駄ってことです。
 
 
この世に関わろうとするものがあるとき、その時点で人は下駄を履いてるのです。その時点で、ややビンビンなんです。欲しいものがあるとき、その人は、その人、個人の感覚とは違う、一種の集合的無意識の感覚になるのです。
 
 
 
で、こんな話をしたくなかったんだけど、たとえばこう考えてください。
 
1分間だけ、「わたしはこの世界に欲しいものがなにもない」と思ってみる。ただここに私がいるだけだと。わたしは、ありとあらゆるものから解き放たれてると。
 
 
 
これが、つまり瞑想ってやつです。
 
そして言ってみれば瞑想は、自分自身をノット・ビンビンことフニャフニャにする方法なのです。
 
 
この世に執着がなくなるってのは、そういうこと。下駄をすべて脱ぐ。まむしドリンクを全面カットして、まるで赤ちゃんのようなビンビンとはほど遠い自分になるってのが、まあ、人がこの世界をまともに見るってことなんです。
 
 
で、それって一体どうなのか・・・・・・っていうね。
 
というのも、なんだかんだ言って、みんなビンビンに生きたいでしょ?
 
 
 
 
にしても、真面目にビンビン言い過ぎて、感覚がなんかおかしくなってきた。我が人生に一片の悔いなし。