「ワンダと巨像」 ストーリーの超ネタバレ考察

 

 

 

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ゲームは、禁足地と呼ばれる場所に、ワンダという少年が、ひとりの少女を馬に担いで訪れるところから始まります。

この少女はどうやら死んでいるようです。

長旅の末、その旅の目的地であろう神殿に到着したワンダは、その少女を人が1人横になれるほどの奇妙な台座へ寝かせます。彼女はいまにも目を覚ましそうな顔で眠っています。すると、ふとどこからか声が聞こえます。

「そこにおるのは人間か・・・・・・」

そして、ワンダが答えます。

「あなたがドルミンか! 地の果てであるこの地に、死者の魂をも操る者がいると聞いてここまできた。この少女は呪われし運命により生け贄にされ魂を失った・・・・・・あなたの力でその魂を呼び戻して欲しい」

すると、もったいぶった調子で、ドルミンはこう答えます。

「わしが命じることを成すことができればな・・・・・・」

ドルミンはこの神殿内に建っている16体の“偶像(石像)”を壊せと言います。また、その方法として、この地のどこかにいるこの偶像と対になった“巨像”を討ち倒すことが出来れば、この偶像も崩れるだろうと、しかしその代償は重いかも知れないと、取引を申し出て、ワンダはそれを承諾します。

そしてワンダは、相棒の馬「アグロ」と共に、巨像を探し打ち倒すことをしていきます。ただ、巨像と聞けば無機質な像を思い浮かべるかもしれませんが、その巨像とは実は巨大な生命です。剣で刺せば血が勢いよく吹き出るような、巨大な生命を討ち倒すことをワンダはしていきます。このゲームしていくと、ここでひとつの罪悪感のようなものが芽生えます。

「1人の魂を救うために、16体もの生命を殺している」

おそらくその巨像は、触らぬ神のようなもので、触れなければ悪いこともしないのでしょう。つまり、巨像は悪ではないため、この巨像狩りには正義もないのです。正義は大義名分です。正義を名乗れば、人はなんだって踏みつぶすことが出来る。しかし、いまここにあるのは、ワンダの切実な想いだけ。自分のために他の命を犠牲にしているのです。そして、ここに人は罪悪感を感じます。なぜかというと、そこに「自分のために」を感じるからです。

普通ひとは、なかなか「自分のために」なんて言えないものです。なにか望みがあっても、すぐ「仕事のため」だ、「社会のため」だと、責任を切り替える。責任を回避しようとします。しかし、実はそれは都合のいい嘘で、本当はただ「自分のために」との本音が怖くて言えないだけなのです。

そしてこの巨像狩りは、ゲームをする人にその責任を・・・・・・つまり「自分の願いのために敵を作り、そして敵を殺す」ことを体感させます。倒れる巨像を見て「かわいそうに・・・・・・」と呟きながらも、自分の願いのために、なにが大事かと自分に問いながら、そうせざるを得ない現実があることをプレイヤーに体験させるのです。

ワンダに剣を突き立てられると、巨像はその地にどかんと崩れ落ちます。すると、一瞬にして色が黒ずんでいき、生命という器を無くした巨像の魂が、まるでヘビのような形となって外へと飛び出してきます。そして、ヘビはその新たな器としてワンダの中に入り込み・・・・・・ワンダはそうやって、巨像の魂を身体に宿しながら、次の巨像、またそして次の巨像と、なにか無機質に繰り返し繰り返し、ドルミンに言われるがままにこの巨像狩りを続けます。

そして、ついに最後の16体目の巨像を倒したとき・・・・・・

ちょうどそのとき、ドルミンの封印が解かれるのを察知した呪術師のような人たちが神殿を訪れていました。15体の偶像が破壊されてるのを見て、台座に少女が寝かされているのを見て、急いでドルミンの復活を止めるべく働きかけるのですが・・・・・・そこで突如として16体目の偶像が崩れ、そこにワンダが現れます。

ワンダはまるで正気を失っているような感じで、殺し続けた巨像の魂がワンダの周りをうようよしています。

「やはりお前だったか! なんてことをしたんだ!」

そう言って、その呪術師の長が周りにワンダを殺すよう命じます。ボウガンから矢が放たれ、ワンダはその場に倒れ込み・・・・・・少女の元へ最後の力を振り絞って向かおうとするも、最後はいままで巨像にしたように剣を突き立てられワンダはその場で命を奪われます。

すると・・・・・・ワンダが死ぬや、その肉体が一瞬にして黒く変色し、みるみるとその姿が角を生やした黒い巨像に変わっていきます。

「我が身体を16の部位に刻み、我の力を封印してきた愚かなる人間どもよ・・・・・・。我が名はドルミン・・・・・・戦士の身体を借り今ここに蘇らん」

ここでドルミンと16体の謎が解けるのです。

つまり、ドルミンとは魂としての存在であり、古の時にその魂を16の生命の器に分けて封印されていた悪魔だった。しかし、ワンダによって封印に必要な生命の器は滅び、16の自由な魂となり・・・・・・最後にワンダが死んだことにより、その死体を借りてこの世に復活を果たした。

このドルミンにとっては、死こそ解放なのです。もっと言えば、死こそがドルミンであり、故に死を魂を操ることが出来るのです。つまり、人間とは真逆の存在なのです。人間は、生であることが人間であり、故に生命があるからこそ他の生命を育みも殺しも出来る・・・・・・。

つまり、このゲームは、究極的な価値観の矛盾を表しているものといえます。自分と敵、そして生と死・・・・・・これをゲームをする人は、そのどちらの価値観をも体験することで、今までの表面的な価値観から「本当は、いったいなにが大事なのか」と価値観を自分で考えるようになっていきます。

そしてゲームは、ワンダの身体を借りるドルミンの操作画面に移り。

小さな人間に囲まれて、まるでいままでワンダが巨像にしたのと同じように、ドルミンとなったワンダは人間に矢の雨を浴びせられます。つまり、敵を作る側だけじゃなく、「敵」になった自分というものもプレイヤーは体験し・・・・・・そして人間が逃げていくやそれに追いつけず、またあっさりとドルミンはワンダの肉体と魂と共に封印されてしまいます。

呪術師たちは逃げ、唯一この禁足地と外界とをつないでいた橋も完璧に崩れ落ち・・・・・・。

しかし、ここで少女が目を覚ますのです。

つまり、少女はドルミンの対比として描かれているのです。ドルミンが魂を16に分けられてたのだとしたら、少女はその生命を16に分けられ巨像の生命として使われていた。巨像が一体死ぬや、その生命の欠片が少女へと戻り・・・・・・すべての巨像が倒れたとき、少女にすべての生が戻り、その器へと魂もまた舞い戻った。

そして、少女は傷ついたアグロに案内され、ドルミンが封印された泉へと向かいます。すると・・・・・・そこには小さな角の生えた、赤ん坊がいるのです。

つまり、死(悪)としてのドルミンと、生命(人)であるワンダが、その性格のない原初に戻った状態としてそこに現れていたわけです。そして、この少女が、この赤ん坊をこの地でこれからどう育てるのか・・・・・・。言わば、このゲームをプレイした僕らが、この善も悪もない自分を、そのどちらの素質もある自分をこれからどう育てていくのか・・・・・・。最後にそれが問われ、「ワンダと巨像」の物語はここでおわるのです。