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「ワンダと巨像」の物語は神話となった。

まえにfacebookに「ワンダと巨像」ってゲームのレビューみたいなものを書いたんですけど、それを、去年の暮れあたりに作ったブログに載せてたんです。

 

記事を書いても、facebookに載せてるだけだと行方不明になりますからね。だから、検索にも引っかかるし、記事置き場としてブログを作っては載せてたんです。

 

 

nagarau.hatenablog.com

 

 

そしたら、あら、不思議なことがおこりました。

 

実はある程度の記事を載せてからは満足しちゃって、以来、何ヶ月もそのブログを更新させてなかったんですけど・・・・・・ふと先日、思い出したようにこのブログをチェックしてみたら、なぜか異様にアクセスがあったんです。

 

まあ異様にとは言っても、日に100人くらいなんですけど。ともかく「まったく更新もしてないのに、毎日100人も来るだなんて・・・・・・なにか炎上するようなことでも書いたかな」と思って、どの記事にアクセスが集中してるか調べてみたら、

 

それが、「ワンダと巨像」のレビュー記事だったのです。

 

これには驚きました。だって、「ワンダと巨像」なんて、もう10年も前のゲームじゃないですか。いま話題のことを書いてて人が来るなら分かるけど、10年前のゲームを知りたくて来る人が、未だに一日に100人もいるだなんて・・・・・・。

 

あれ。驚きませんかね。

 

この日本に、「ワンダと巨像」を知りたいと思う人が、一日に100人もいるんですよ?
 
つまり言うなら、一日に100人・・・・・・トータルでどれだけの人が来たか知りませんが、それだけの人の中で、未だにこのゲームは生きているわけです。
 
「ああ、昔プレイしたけど面白かったね」とか、そういうんじゃないんです。いま気になって、いまこの物語を「もっと知りたい」という人が、一日に100人もいるのです。いま・・・・・・、この「いま」という瞬間に、このゲームの主人公たちが自分の中でも生きているという人が、一日に100人もいるのです。
 
「自分の中に生きている」というのを違う言葉にすると、「むかし見たあの景色を、またあの場所へ行って、もう一度見たい」と想い続ける人が一日に100人いるようなものですよ。
 
「あの絵を、もう一度見たい」と想い続ける人が、
「あの人に、もう一度会いたい」と想い続ける人が・・・・・・
 
まるでスタンプラリーのように、一度見たら“見た”で終わるものとは違うのです。映画を見て「これは星3つ」とか、そんなインスタントなものじゃなく、

 

ワンダと巨像という物語が、いつまでも心の中で続いている」

 

そういう体験をしてる人が、10年経った今この瞬間にも、これだけいるということなんですね。

こうなると、もう神話と同じかもしれません。

 

日本人の心の中には日本神話の神々が生きていて、日本人という、その生き方に無意識にも現れているといいます。

 

それと同じことを、(もちろん、イザナギイザナミの神話とは比べものにはなりませんけど)も

しかしたら「ワンダと巨像」をプレイした人たちも経験してるかもしれない。生きた物語がその人の根っことなり、意識のずっと奥深くで、同じく「ワンダと巨像」を根っこにしてる人たちと繋がっているかもしれない。

 

たとえば、インド人がインドで日本人を見ると、そこにはある独特の「日本人臭」が漂ってるのだといいます。中国人とも韓国人とも外見ではそんな変わりないのに、日本人には日本人の、雰囲気というか、なにか漂わせる独特の空気があるというわけです。

 

それと同じように、「ワンダと巨像」の物語が、自分の中で生きてる人たちには、なにか独特の・・・・・・この世界観でいうとこの「禁足地の匂い」が、おそらく漂っている。

 

もちろん神話や「ワンダと巨像」に限らず、ありとあらゆる物語はその人の血となり、肉となり、精神の根っことなり得るでしょう。子供のころに読んだマンガはもちろん、桃太郎なんかの昔話や、もっといえば過去に見て感動した絵や、恩師と呼べるような先生も、みんな「自分の根っこ」となり得るでしょう。

 

その物語自体に力があることと、受け取る側の純粋さとタイミングさえ整えば、いつまでもその人の中で“彼ら”は生きるのです。根っことなり、その人を支えるようになるわけです。

 

そして・・・・・・

 

逆に言うと、「教え」や「教義」といったものは、その人の表面に、まるで自信のようにつくことが出来るけど、根っことはまったく別のものになります。

 

たとえるなら、仏教やらキリスト教やらと、世の中にはいろんな宗教がありますが・・・・・・これらの「教え」が心の中で生きている人が、果たしてどれだけいるでしょうか。

 

キリスト教者だといって戦う人が、仏教者だといって貪る人が、この世界にどれだけいるのでしょうか?

 

こういう人たちにとって、キリストもブッダもただの虚像でしかないのです。死んでるのです。なにも根っこにないわけです。ただの制服みたいな、外向けに自分を飾るオシャレに目覚めた女子大生みたいなもんなわけです。

 

自分の底に物語が生きてないなら、みんなそれは嘘なんです。

 

精神(物語)のない行動は、結局、自分のエゴを満たすためにしか動きません。

 

ワンダと巨像」の素晴らしいのは、その物語が「悪を倒す」ためのものじゃないというところです。倒した巨像に、思わず「ごめんなさい・・・」とつぶやきたくなるような、正義なき命の物語であるというところです。

 

なにが正しいかなんて考えて行動しても、それで得られるのはウンコみたいな自信です。そんな自信に振り回されるより、自分の根っこにある物語を生きる方が、よっぽど。僕は美しい生きかただという気がします。