「ハウルの動く城」は今の時代そのものだなあという話
魔法の世界に逃げ込んだ男の子ハウルと、仕事ばかりで心がお婆ちゃんのように干からびた女の子ソフィー。
この二人が出会って共同生活を送ってると、さて戦争という社会的な義務が発生し、二人はこの義務に立ち向かわざるを得なくなる。
義務から逃げ続けていたハウルは、ソフィーを守るため初めて自分から戦うことを選ぶ。孤独に干からびていたソフィーは家族を持ち、人と世界と関わるということを思い出す。
そして二人は傷つき・・・・・・ハリボテの城は壊れ、外面がすべて消し飛んだときに、ついに二人はなくしていた心を見つける。
・・・・・・ってのが「ハウルの動く城」の大ざっぱな話ですが、よくよく考えると、この話は今の時代そのものじゃないですか。
魔法の世界に逃げ込んだハウルなんてのは、まさにすべてをゲームとして捉える、ネットやオシャレやセックスの世界にずっぽしの現代男子の象徴なわけです。
心がお婆ちゃんなソフィーなんてのも、日常に忙殺された、孤独と虚しさを抱える現代女子の象徴です。
その現代人二人が、あるとき避けられない社会の荒波に出会う。言ってみれば平和ボケして病んでる二人が、戦争という超現実を突きつけられる。
この超現実は、たとえるなら震災なんかの自然災害とかもそうですね。思考という魔法で守られた世界をのうのうと生きていると、ある日いきなり超現実が向こうからやってくるというわけです。
そして、なすすべなく超現実を生きるほかなくなった二人は、必死に生きるということを思い出す。必死に生きることでこれまで閉じこもっていた自分の城から、実は自由に飛び出せることを思い出すのです。
すると、「ああなんだ、すべてはハリボテだったんだ」と気づいて・・・・・・
そして、忘れていた心や愛を思い出す。
(つまり、素直になれる。本音になる。なにかを気にして好きな人に素直に『大好き』と言えない人はまだ魔法にかかっているというわけ)
ちなみに映画には、魔法で「かかし」にされた王子がいましたが、これは僕らみんなにかけられている魔法です。外見にとらわれているというか。さらにいえば、よく分からずに始まった戦争の終わる鍵が、実は身近なところにあるという。複雑のようなみえて、物事は実はシンプルなんだという。
で、火の悪魔カルシファーは物質主義の象徴で、現代で言うとこの原発やスマホでしょうかね。その火の悪魔の力でハリボテの城が作られていて、僕らはどっかでその悪魔と取引きをしているというね。
まあこの世界は、思えばとんでもなく魔法が幅を利かせた世界ですな。
いやいや。僕も魔法を解こうとするじゃなく、魔法をかける側に回った方が楽に生きられそうなのに、まったく、なにしてんだろうな。
誰も見てないから書ける「シン・ゴジラ」の尻尾のこと ※ネタバレレビュー
庵野さんといって思い出すのは、僕が数年前に劇場でエヴァQを見たときに、その途中から電撃的な尿意におそわれ「ああ、もう我慢できん!」とシートを緊急脱出したが最後、戻ってきたらカヲルくんが死んでて、なぜか一面砂漠のシーンになってて、「え、これ同じ映画ですか?」とアホな顔してシートに戻ったことを思い出します。
で、エンドロールとともに「普通、あの大事な場面でトイレいく?www」との誰かを嘲るようなカップルのひそひそ話が聞こえてきて、「もう二度と映画前にカフェインを摂取するのはやめよう」と、こぶしを固く握り強く誓い・・・・・・
その誓いが生きて、今回は万全の態勢で最初から最後まで「シン・ゴジラ」を見ることが出来ました。ので、ここに簡単な感想と報告をさせていただきとう存じます。
もちろん「ネタバレ」になるので、見てない人は見ないでください!!
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というわけで、まず「ゴジラとはなにか?」という話です。
いや、むしろゴジラという映画は、実は「ゴジラとはなにか?」だけの映画なんじゃないか。
というのも、これが実は深い話で、これを語るに世の中には「ゴジラ論」というものがあるみたいです。そこには「ゴジラとはなにか?」ということが、1954年当時の初代ゴジラ制作者の話からルーツを辿って事細かに書かれているわけですが・・・・・・
それでいうと、「ゴジラというのは、先の太平洋戦争の戦没者の霊の集まり」なんだそう。
その戦没者の霊の固まりが、1954年の、戦後復興して「アメリカ文化いいね!」とかいって楽しそうにしてる日本人に「この野郎、おれたちはなんのために死んだんだ」って復讐しにいくのがゴジラの本当の話なんだそうです。
つまり、いってみればゴジラは「タタリガミ(祟り神)」だという。
もののけ姫の最初のシーンなんかに出てくるあれです。復讐のために村を襲う。自分を知らしめたくて人を襲う。だからわざわざ人の多い東京へと向かってくる。
そして・・・・・・その戦没者のタタリが、時を経て、いままた日本は東京に上陸するわけです。この安保法案だなんだとやってる、いまの日本に。おい、忘れてんじゃねえぞと、忘れ去られた過去の亡霊がやってくるわけです。
しかし、それは一面で、それがゴジラの原点で性格ではあるけど、今回のゴジラはそれだけじゃないのです。なんたってシン・ゴジラですから。ゴジラも今までのゴジラじゃなく、リニューアルした新しいタタリを背負っている。
その新しいタタリというのが、例の震災と原発事故ですね。
「忘れ去られた震災と原発事故」と、もっといえば「それで亡くなった人たち」を背負ってやってきたのが今回のゴジラなわけです。(最初ゴジラが上陸したときなんてのは、海へ戻ったあとのガレキ含め、まさに津波そのものですしね)
で、この映画の本当にすごいのは、それで首相を含む官邸の11名を殺すまでやっちゃったところです。映画の中で復讐しちゃった。復讐完了しちゃった。一見さりげなく殺してますが「それやっちゃうなんて、庵野さん魂削りすぎですから!」ってなもんです。
ある意味、これで「シン・ゴジラ 完」でもおかしくない。
ゴジラも、「もうやることやっちゃって、これからどうすんの?」という感じで寝ちゃったりして。
すると、ここから「シン・ゴジラ 第二部」が始まるわけです。ここからは、打って変わって、こんな日本になったらいいなあという夢と希望の物語です。
新しい若くて責任を取れる政府が出来て、それぞれが自己犠牲をいとわずに、覚悟を決め、己の魂を削ってゴジラへと立ち向かっていくのです。
無人の電車が突っ込んでいくシーンなんてのもありましたが、あれは僕ら庶民の象徴です。いつも乗ってる、言ってみれば僕ら庶民の魂を乗せた電車がゴジラの足下を揺るがすわけです。たとえ庶民でも、覚悟を決めたらゴジラを転ばすことくらいは出来るという。
それで、もはややることのないゴジラはものの見事にやられ役と化し、日本がその総力でもって「鎮まりたまえ、鎮まりたまえ」と八塩折(ヤシオリ)の酒で荒ぶる神を鎮めたまうという。。。
で、「日本もやれば出来るんだ!」で「シン・ゴジラ 完」・・・・・・の前に。
ラストのラストに、凝固剤で固まったゴジラの尻尾がズームされるというシーンがあります。
それも無音で。このときはスクリーンどころか、このシーンでは観客席からも音はしません。すべての観客が、まるで魔法をかけられたように静まりかえってゴジラの尻尾をただ見るのです。そこに一体なにがあるのかと見るのです。
で、僕の思うに、このシーンこそが「シン・ゴジラ」で庵野さんが一番描きたかったもの。もっといえば、庵野さんが一番みんなに見てほしかったものがここに描かれてるのです。
このシーンのことをネットで調べると「巨神兵だ」とか「子ゴジラだ」とかいろいろあるけど、このシーンはそんなもんじゃないのです。なんたって僕は劇場の最前列で1人で見ましたからね。よく見れば見るほど、そんな程度のもんじゃない。
じゃあ一体なにが。
あのハエは、なぜあの小ささで、愛を交わす相手を簡単に見つけられるのか
カレー屋でチーズナンを食べてると、その匂いに釣られたのか「小バエ」がふらふら飛んできた。
よっぽどの存在感じゃない限り、僕は虫で騒がない。むしろこのぐらいは「来客現る」程度のもので、テーブルが賑やかになっていいくらいに思ってしまう。
僕が気にせずチーズナンを食べていると、「小バエ」はテーブルに止まったり、ちょっとナンに近づいたりと、なにやら楽しそうに遊んでいるようだった。空調が直接あたるところでは吹き飛ばされたりして、しかしまた舞い戻ったりしての、ねばり強さも見せていた。
僕はチーズナンを一生懸命に食べていた。チーズナンを食べた後の腹のふくれかたは尋常じゃない。とくに最近僕は小食になってたので、いつにもましてチーズナンを頼んだことを後悔し始めていた。カレーセットのナンをチーズナンにするべきじゃないと、確か去年も思ったのに。
しかもこのカレーセットには「サモサ」という揚げた芋の塊までついている。芋なんて、腹を膨らますためだけにあるような食物だ。しかもそれが分厚い皮に包まれ油で揚がってるなんて、インドは正気じゃない。無理だ。無理。僕には無理。
そうして、いよいよこの店はお持ち帰りOKだろうかと考えはじめていると、先ほどの「小バエ」にふと目が移った。思わず二度見してしまった。顔を近づけてよく見てみると、そこに春があった。
見たままを言えば、その「小バエ」が、もう一匹の「小バエ」と合体をしていた。たった10分ほど、目を離した隙にこれだ。もはやこのテーブルでは、チーズナンを食べる僕より、この2匹のほうが幸せそうだった。
「しかし、いつの間にくっついたんだ。というより、もう一匹はどこから来たんだ」
その合体を見ながら、僕はふと考えた。これが人間なら分かる。なぜなら人間は大きい。的が大きいが故に、狙い打てば当たるのも理解できる。また人間は数も多い。探す手間がいらない。狙い打たなくても、とりあえず弾を撃てば誰かに当たる可能性がある。
しかし、「小バエ」はどうだ。なんたって彼らは小さい。的が小さいが故に、狙ってもそこに当てるのは至難である。また数も少ない。人間はそこら中に溢れてるが、「小バエ」は僕の知る限り溢れていない。僕からしたら、狙うも撃つも以前に、そもそも「小バエ」という的自体が見つからない。
しかも彼らは、それを人間の200分の1スケールで行っている。いわば彼らの住む世界は、人間の住む世界より200倍広い。200倍ということは、単純にいうと60平米のカレー屋が彼らには12000平米になるということだ。さらに彼らの行動圏は、人間の平面的なそれと違い立体的である。人間が地に足をつけざるを得ないのに対し、彼らは世界を3次元に飛び回る。いわば彼らの見えてる世界は、実質、人間の200倍どころの騒ぎじゃない。仏教でいう三千世界ばりである。
にも関わらず、だ。
そんな広大な世界に生きてるにも関わらず、どういうわけか彼ら「小バエ」は、まるでそれが当然のように的確に相手を見つける。しかもたった一瞬のうちに合体をする。
これが僕には不思議に思えた。婚活パーティーをするでもなく、なぜ点にも満たない相手をこうも自然に見つけることが出来るのか。
人間にとっての渋谷のような、「小バエ」のデートスポットが、見えない輪郭(たとえば匂い)を持って存在するのだろうか?
「春になり動けるようになった。動いていると良い匂いがした。良い匂いの場所に行ったら、かわいい相手がいた」
産卵期のサケが故郷の川へと戻るように、「本能」と呼べるものが「小バエ」を運命に引きつけているのだろうか?
つまり、好む季節という引力があり、好む場所(匂い)という引力があり、好む相手という引力があり・・・・・・「本能」がその引力を感じ取り、大きい引力からやがて小さい引力へと辿るように、その「小バエ」を運命へ引きつけているのだろうか。
だとしたら、彼らには大きい的も小さい的も存在しないということになる。大きな入り口が、ただ小さな出口へと繋がっているという、それだけということに。
そう思えば、自然というのは、おそらくそういうものなのだろう。まず「本能」があり、ただそれが自分の必要なものに引きつけられる。引きつけられるのだから、確率もなにも関係なく、ただ単純に出会いが起こる。いわば人間の目から見た奇跡が、ただ自然に起こるべく起こる。
人間も、もしかしたらそうかもしれない。計算や道理をもつことをやめたら、実は「本能」が、本人が気づきもしない的に自分を引きつけてくれるかもしれない。
僕は人の視線に敏感である。まったくヨソを向いてても、誰かが自分を見るや、すぐそれに気が付く。そして、ついそれを見てしまう。
もしかすると引力も同じで、それはある種の「視線」なのかもしれない。それは自分を見る何者かの目で、「本能」を凝らせば、人はおそらく、ありとあらゆる視線をこの世界に見つけられる。
そして、その「視線」のうちの一体どの「視線」が、自分にとって一番心地いいものなのか。それこそ計算や道理を超え、自分の本能は一体なんの「視線」に引きつけられようとしているのか。
なかには悪臭ただようような「視線」もあるかもしれない。あまりに匂いがキツいが故に、そこを見ずにはいられないという「視線」も、きっとある。もし計算が「本能」より優位なら、人は自らが心地いい匂いより、より匂いが強いほうへと引きつけられる。
小さな虫でさえ、自らが好む匂いに引きつけられるのに。だとしたら、人間は虫以下か。それが人間なんだろうか。
本当は、引きつけ合うのが当然なのだろうに。
愛し合う「小バエ」たちを見つめながら、僕はチーズナンを食べきることをあきらめた。
「オカノマサシの弁明」
来月の18日に、イベントをすることになりました。
タイトルは「オカノマサシの弁明」です。
オカノマサシとは僕の本名なわけですが、そのタイトルから読めるように、僕が自らの罪を弁明するというイベントをします。
どんな内容かというと、内容は「ソクラテスの弁明」よろしく、裁判を象ったものです。つまり、僕が被告となり、お客さんには僕を有罪か無罪に裁く陪審員になってもらいます。
僕が、いつもfacebookでやってるように「この世の中は、これでいいのか?」と発言をするわけです。「あなたは、それでいいのか?」と挑戦をするわけです。
そして、その発言自体が、僕の罪なのです。
僕の発言は、おそらく一般的な社会では到底受け入れられない発言でしょう。もっと言えば、スピリチュアルや、エコや、社会運動といった、僕の身近な人が良しとする部分にまで、なにかしら勘に障る発言をするでしょう。
それに対し、お客さんは陪審員として僕になんと言うのか? どんな対話が成立するのか? そして、最後に、僕にどんな裁きをくだすのか?
なぜこんなイベントをするに至ったかというと、ことの発端は、友人のギャラリーオーナーが、僕のfacebookの記事を見て「ひこのお話し会をしたいんだけど」と僕に振ってくれたのがきっかけでした。
有り難い話だな~と喜びつつ、しかし、ふと僕は思いました。
「僕ごときが、人前でえらそうに話せる立場だろうか」と。
もっと言えば、僕は、このごろよくある「○○さんを囲む会」的なものが非常に嫌いでした。ひとりのスピーカーが偉そうに壇上にあがり、なにかしら正解っぽいことを話し、お客さんは、あくまでお客さんとしてその話を受け取るという。
いわゆる「トップダウン」とでも言うのでしょうか。それが僕には、盲信する信者を増やす、ネズミ講的な仕組みにしか見えなかったわけです。結局トップの人しか得しない、アイドルとファンの構図じゃないかと。
言い過ぎを承知で言うと、結局、自分で考えられない馬鹿を量産してるだけなんじゃないかと、そう思ったのです。
で、もし僕に良心があるならば、こういうことだけはしたくなかった。
たとえて言うなら、お客さんがカゴの中の鳥だとしたら、いままでのお話し会は、鳥そのものを変えるんじゃなく、鳥のいるカゴとエサを変えるお話し会なんです。カゴの鳥に、新しい夢を見させるだけのものなんです。
僕はそれは嫌だった。もしスピーカーに良心と、恥を知る心があるなら、そうであってはならないと思いました。カゴの鳥が自らカゴを飛び出すことこそ、カゴを出て「ああ、僕の翼はこんなに大きかったのか」と自分自身に気づくことこそに、スピーカーは喜びを得るべきだと、そう思ったのです。
主役はあくまでスピーカーじゃなく、お客さんであるべきなのです。
そして、そのときにふと閃いたのが「ソクラテスの弁明」でした。
あの話を読んだ方は分かるかもしれませんが、実はあの話の主役は、ソクラテスではありません。弁明するソクラテスじゃなく、ソクラテスに死刑の裁きをくだす民衆こそが実は主役なのです。
また、ほかの有名な裁判でいうと、イエス・キリストの裁判もそうです。
あの話も、民衆が死刑を望まなければ、イエスは死刑にはならなかったのです。イエスに決定権はなく、あくまで民衆がその物語を作ったのです。
もし、いまの時代に、ソクラテスやイエスの裁判があったら・・・・・・あれから2000年たったいま、人々は、一体どんな判決をくだすでしょう? ソクラテスを許し、自らの無知を認めるのか? イエスを許し、自らの罪をも許せるのか?
この物語は、民衆、もしくはお客さんが、自らくだす裁きをもって、自らの進むべき道を選ぶのです。受け身でなく、その瞬間だけでも主役として、自分で世界を動かす能動的な体験をするのです。
もちろん僕は、ソクラテスやイエスに及ぶような人間では全くないです。ただ、ここで被告は脇役ですから、イエスだろうと、僕だろうと、そんなのはどうでもいい。あくまで主役は、裁きをくだす人たち。
僕の話しを良しとするかどうか・・・・・・もし僕が有罪となれば、僕は言い渡されるあらゆる罰を、甘んじて受けましょう。
そんなわけで、このイベント・・・・・・いや、この物語についての説明をさせていただきました。
さあ、一体どんな答えが返ってくるだろう。このイベントは、いまの僕のこの世界への精一杯の問いかけです。
イベントページはこちらから
https://www.facebook.com/events/408846099297941/
「かくかくしかじか」を読んで、恩師とどうやって巡り会うかを考える
マンガ大賞っていうのがあって、その今年の大賞に「かくかくしかじか」という漫画が選ばれたのだそう。
まあ、「選ばれたのだそう」なんて他人行儀に言いましたが、実は僕も、この漫画が大好きです。さきほど2日前に発売された最終巻をファミレスで読んでは、ぼろっぼろに号泣しちゃうくらい。違う席の大学生に見られても、むしろ「感動する僕の姿を見て、この漫画に少しでも興味を持ってくれたら」との気持ち悪い考えが浮かぶくらい、この漫画は“いい漫画”です。
この漫画のあらすじを簡単に言うと、内容は、作者「東村アキコ」さんの自伝的な話になります。
「一体、どうやって彼女は漫画家になったのか?」
という、ほんと簡単にいっちゃうと、よくあるサクセスストーリーなんですが・・・・・・けど人生ってのは、自分ひとりで「こうしたら、こうなりました!」と言えるようなものでは到底ないわけです。
そこには親がいて、友人がいて、そして人によっては「恩人」と呼べる人がいて、いまの人生があるわけです。
高校3年生になったアキコさんは、ある日、「漫画家になるために、美大に行きたい!」と、友人の紹介で絵画教室に通い始めます。宮崎のぬるい環境で「うまいうまい!」と自意識ばかり伸ばされてたため、絵画教室にいくバスの中では「天才が来たって、騒がれたらどうしよう」なんて完全に思い上がっています。
もう完璧に天狗です。アキコさん本人の言葉でいえば、完全なる「クソバカ」です。
しかし、このプライドは、絵画教室で自作の絵を見せた瞬間に一瞬にして崩壊します。
「はい全然下手くそでーす。これもダメあれもダメ、ダメダメダメダメダメ・・・・・・って、おまえいま何年か!? 3年!? 3年でこんな下手くそじゃ、おまえどこも受からんど!! 美大行くつもりなんかこれで!?」
持ってきた絵を竹刀でバシバシと叩かれ、初対面にしてありえない暴言を吐かれる。これが、この絵画教室の先生、アキコさんと人生の恩師となる「日高先生」との出会いでした。
それからアキコさんは、日高先生の「絵は毎日描かんとダメや。一日も休むな。描け、描け、とにかく描け!」という号令のもと、毎日必死で絵を描き続けるわけです。
描いて、描いて、描いて。
しかし、描けなくなり、爆発し、もう無理だとへたりこみ・・・・・・が、そのたびに竹刀でしばかれ、顔を鷲掴みにされ、キャンパスに顔を押しつけられ、
「描け、描け、描け!!!」
と、また先生に描かされ、蹴り上げられ、歩かされる。
先生は、ただひたすら真っ直ぐに、本気で、生徒を美大へ行かせるために。およそ無料奉仕のような状態で、生徒の、アキコさんの背中を、唯一無二の存在力で押し続け・・・・・・
まあ、すごい先生なのです。
これだけ読むと、ただの体育会系のスパルタ教師のようにも見えるかもしれません。けど、それだけじゃないのです。先生の、その作為なき本気さと、自らを顧みない生き方を見てると、不思議と、なにか懐かしい空気に包まれたような気になってくるのです。
「あ、人間だ」
と、久しぶりに本物の人間に出会ったような、心の奥深いところが疼くような、そんな気がしてくるのです。
いろんな人が、この漫画について書いているのを読みましたが「もし自分が、日高先生のような人に出会えてたら・・・・・・」と、みんな口を揃えて言っていました。
ああ、こんな人に会えていたらと、もちろん僕も思います。
けど、どうなんでしょう。
もし、いまどきの人が日高先生のような人に出会ったところで、素直に、その教えを受け止めることが出来るのでしょうか?
たぶん無理なんじゃないかなあ。まだ固まってない10代の若い子ならまだしも、「こんな先生に出会えてたら」と言う人に限って、仮にいま出会っても、きっと気付きもしないんじゃないでしょうか。
出会えないのには、きっと、出会えない故の理由があるのでしょう。
思えば、いまどきの○○教室とか、○○勉強会のほとんどは、言ってみれば商売です。お客さま商売です。お客さまに、来ていただかなくてはならない。お客さまに、気持ちよく帰ってもらわなくてはならない。また来てもらうためにも。何度でも来てもらうためにも。
そんなところに、果たして、恩師たる先生がいるのでしょうか?
もしかしたら、自分をボコボコに打ちのめしてくれる人こそが、本当の意味で恩師たり得るのではないでしょうか?
仮に勉強会で気持ちよく帰るとき、おそらく僕たちは、何も学んではいません。
もし気持ちいいとしたら、それは「情報を得る」という、まるで物欲が満たされると同じようなものです。自尊心を膨らませてるのです。
本当の“学び”とは、混乱をともなうものです。衝撃をともなうものです。自我を揺さぶられ、吐き気を催すことだってあるくらいの、いままでの自分を壊す行為なのです。
ただ、そんなことをする先生は、初対面ではまず好かれない。一度会ったら、もしかすると二度と会いたくない人かも知れない。
けど、実はそんな人こそが、僕たちの運命を動かすために現れた天使なのかもしれない。過去に出会ったあの人が、あの人が、あの人が、もしかしたら・・・・・・。
僕は、赤ちゃんを見ると、たまにものすごい恐怖を感じることがあります。みなさんはそんなこと無いとは思いますが、ともかくそんな感じで、天使と会うのは、実は悪魔と会う以上に怖いものです。
泥棒に入られて気づいたこと。
うちに泥棒が入りました。
というわけで「お金が消えた!!」と交番に飛び込み、お巡りさんがうちに来て、そのあとに刑事さんと鑑識の人も来て、なんやかんや今日はいろいろと初体験の多い日になりました。
しかし、びっくりしましたね。財布あけたら空っぽなんですもん。気づいた瞬間「確かに、お金を入れてたはずなのに!」ってなもんです。けどこれが時間が経つにつれて「あれ~。実は使ったのかな~」なんて疑心暗鬼になったりして。
よく、冤罪事件の話なんかで、「刑事さんに無理矢理自供させられ、罪を認めてしまった」なんて話がありますが、そうなるのもよく分かりますね。
だって、普通、人は自分の生活にいちいち気づいてないですもん。このときこれをして、その次にあれをしてなんて、一体どれだけの人が正確に言えることか。そもそも、昨日の晩ご飯さえ、なに食べたか覚えてない人だっているわけですから。
無意識で、まるで夢遊病者のように生きてる人がいっぱいいるわけですから。
車を運転してたら、いつのまにかうちに着いてたみたいな人もいるわけですから。
そんな人に、「あなたは、人をひいてたんです!」なんて強い語気で言ったら・・・・・・まあ普通は否定するのは難しいですよね。「ひいてないとは思うけど・・・・・・でももしかしたら、そうなのかもしれない」なんて思えちゃうかもしれません。
世の中のマーケティング手法も、これと同じですね。本当は必要のないものを「欲しい!!」って思わせるものは、みんなそういう手口です。
自分に気づいてない人は、簡単に、そう思いこまされるというわけです。もっといえば、そのときの意図的な流れに「なんとなく」流されざるを得ないのです。
で、僕の場合は、自分のお金にぜんぜん気づいてなかったのが災いですね。思想や行動には、わりかし気づいてる方と思ってたのですが、これがお金に関してはぜんぜんダメだったんです。きっと、「スーパーどんぶり勘定」で生きてたツケが回ってきたのでしょう。
僕は、いままで自分の財布にいくら入ってるかってのを把握してないで生きてきたのですが、この一件のおかげで、「これからは、お金にもちゃんと気づいていきよう!」と思いました。
ほんと、そうならないためにも、みなさんも意識的に生きた方がいいですよ!!
・・・・・・で、話戻って。
「お金がない!」と気づいて、とりあえず交番に行ったら「現場を見させてください」って話になったんです。それで自宅にお巡りさんを案内することになったんですけど、案内しながら話をしてたら、なにやら話が弾んじゃいまして。
だって僕みたいな人間が、公務員や警察官の人となかなか話す機会なんてないですからね。なので「こんな機会はなかなかない!」とばかりに、パンパンな制服の中身とか、「なんで警官になろうと思ったんですか?」とか聞いたり、お巡りさんが花粉症だと言えば、「花粉症だったら、ゆで卵の白身を潰して鼻の奥にこすると治りますよ!」と教えたりして・・・・・・
お巡りさんが帰るころには、「また被害にあって、交番に遊びに行きますよ!」とかそんな話をしていました。
いや~。泥棒が来なかったら、このお巡りさんとも接点がなかったと思うと、泥棒さんに感謝ですね。思わず、つぎ被害にあうのが少し楽しみになってきたというか・・・・・・
僕なんかが言うのもですが、人生って、こう考えるといくらでも楽しくなります。
最近、なんかのブログで「その場所や人といるのが苦痛なら離れろ、時間の無駄だ」なんて書いてたのを見たんですが、人生なんて、楽しもうと思えばそれがどんな場所でも楽しめるはずです。自分で楽しく出来るはずです。
逆に「そこが楽しくないから違う場所にいく」なんて発想は、ものすごく西洋文明的な発想だと思います。「新大陸へ!」なんて美しく飾っては、アメリカ大陸を侵略するのと同じ発想なんです。
いくら「ありのまま」やらスピリチュアルだとか言っても、実はこれは非常に物質的な考えなんです。
まえに、映画のドラえもんで、のび太が地球を作るって話を見たことがあるんですが、この映画のラストで、その地球で栄えた二つの文明があわや戦争をするというシーンがあります。まだ幼かった僕はそれを固唾を呑んで見守りました。「のび太とドラえもんは、一体どうやって平和を作るんだろう?」と。
すると、のび太が閃きました。「そうだ! もうひとつ地球を作ればいいんだ!!」
え、え、えええ・・・・・・??
僕は唖然としました。幼いながらに「なにも・・・・・・、なにも解決になってないよドラえもん!!」と叫びました。
しかし、映画はそれで、みんな笑顔のハッピーエンドとなり・・・・・・僕はひとり宇宙に取り残されたようでした。
「それぞれが住みやすい世界にいけば、世界は平和になる・・・・・・そんな馬鹿な!! いくら住みやすい場所を作っても、そこでまた争いが起きるに決まってるじゃないか!!」
さあ、自由とはなんでしょう。平和とは、幸せとは。
それは外に求めるものなのでしょうか?
楽しい人と、素晴らしい環境にいれば、それは幸せなのでしょうか?
僕は、そうではないと思います。どんな人といても、どんな環境にあっても、人は、その人自身の力で、その時間を地獄から天国に出来る可能性があると思う。
僕の好きな映画に「ライフ・イズ・ビューティフル」というアウシュビッツに収容されたユダヤ人親子の話があるのですが、もし見たことない人がいれば、これは絶対に見たほうがいいです。これこそが映画であり、人生です。
また違う話をすると、よく健康や自然治癒力の話で「滅菌の部屋で育った子は、抵抗力が弱くなる」なんていいますけど、言ってみれば「心の環境」の話でもこれは同じことなんです。
つまり、「周りに自分を楽しませてくれる人がいればいるほど、人は、自分から人生を楽しむ力が失われていく」のです。
一日一日の、なにげない、あたたかな人生に感動する力が失われるのです。
そんなんじゃ、地球が二つあっても足りないのです。
「幸せとはなにか?」と言われたら、それは幸せな場所に浸かることじゃなく、自らを幸せにする精神的な力のことなのです。
「平和とはなにか?」と言われたら、それは平和な場所に住むことじゃなく、自ら平和であろうとする精神的な力のことなのです。
この内なる力に、僕たちは気づくべきなんです。育てるべきなんです。
当たり前のことを長々と書きましたが・・・・・・ともかく、僕は生きとし生けるものが幸せであるように祈っています。
「ワンダと巨像」の物語は神話となった。
まえにfacebookに「ワンダと巨像」ってゲームのレビューみたいなものを書いたんですけど、それを、去年の暮れあたりに作ったブログに載せてたんです。
記事を書いても、facebookに載せてるだけだと行方不明になりますからね。だから、検索にも引っかかるし、記事置き場としてブログを作っては載せてたんです。
そしたら、あら、不思議なことがおこりました。
実はある程度の記事を載せてからは満足しちゃって、以来、何ヶ月もそのブログを更新させてなかったんですけど・・・・・・ふと先日、思い出したようにこのブログをチェックしてみたら、なぜか異様にアクセスがあったんです。
まあ異様にとは言っても、日に100人くらいなんですけど。ともかく「まったく更新もしてないのに、毎日100人も来るだなんて・・・・・・なにか炎上するようなことでも書いたかな」と思って、どの記事にアクセスが集中してるか調べてみたら、
それが、「ワンダと巨像」のレビュー記事だったのです。
これには驚きました。だって、「ワンダと巨像」なんて、もう10年も前のゲームじゃないですか。いま話題のことを書いてて人が来るなら分かるけど、10年前のゲームを知りたくて来る人が、未だに一日に100人もいるだなんて・・・・・・。
あれ。驚きませんかね。
この日本に、「ワンダと巨像」を知りたいと思う人が、一日に100人もいるんですよ?
つまり言うなら、一日に100人・・・・・・トータルでどれだけの人が来たか知りませんが、それだけの人の中で、未だにこのゲームは生きているわけです。
「ああ、昔プレイしたけど面白かったね」とか、そういうんじゃないんです。いま気になって、いまこの物語を「もっと知りたい」という人が、一日に100人もいるのです。いま・・・・・・、この「いま」という瞬間に、このゲームの主人公たちが自分の中でも生きているという人が、一日に100人もいるのです。
「自分の中に生きている」というのを違う言葉にすると、「むかし見たあの景色を、またあの場所へ行って、もう一度見たい」と想い続ける人が一日に100人いるようなものですよ。
「あの絵を、もう一度見たい」と想い続ける人が、
「あの人に、もう一度会いたい」と想い続ける人が・・・・・・
まるでスタンプラリーのように、一度見たら“見た”で終わるものとは違うのです。映画を見て「これは星3つ」とか、そんなインスタントなものじゃなく、
「ワンダと巨像という物語が、いつまでも心の中で続いている」
そういう体験をしてる人が、10年経った今この瞬間にも、これだけいるということなんですね。
こうなると、もう神話と同じかもしれません。
日本人の心の中には日本神話の神々が生きていて、日本人という、その生き方に無意識にも現れているといいます。
それと同じことを、(もちろん、イザナギとイザナミの神話とは比べものにはなりませんけど)も
しかしたら「ワンダと巨像」をプレイした人たちも経験してるかもしれない。生きた物語がその人の根っことなり、意識のずっと奥深くで、同じく「ワンダと巨像」を根っこにしてる人たちと繋がっているかもしれない。
たとえば、インド人がインドで日本人を見ると、そこにはある独特の「日本人臭」が漂ってるのだといいます。中国人とも韓国人とも外見ではそんな変わりないのに、日本人には日本人の、雰囲気というか、なにか漂わせる独特の空気があるというわけです。
それと同じように、「ワンダと巨像」の物語が、自分の中で生きてる人たちには、なにか独特の・・・・・・この世界観でいうとこの「禁足地の匂い」が、おそらく漂っている。
もちろん神話や「ワンダと巨像」に限らず、ありとあらゆる物語はその人の血となり、肉となり、精神の根っことなり得るでしょう。子供のころに読んだマンガはもちろん、桃太郎なんかの昔話や、もっといえば過去に見て感動した絵や、恩師と呼べるような先生も、みんな「自分の根っこ」となり得るでしょう。
その物語自体に力があることと、受け取る側の純粋さとタイミングさえ整えば、いつまでもその人の中で“彼ら”は生きるのです。根っことなり、その人を支えるようになるわけです。
そして・・・・・・
逆に言うと、「教え」や「教義」といったものは、その人の表面に、まるで自信のようにつくことが出来るけど、根っことはまったく別のものになります。
たとえるなら、仏教やらキリスト教やらと、世の中にはいろんな宗教がありますが・・・・・・これらの「教え」が心の中で生きている人が、果たしてどれだけいるでしょうか。
キリスト教者だといって戦う人が、仏教者だといって貪る人が、この世界にどれだけいるのでしょうか?
こういう人たちにとって、キリストもブッダもただの虚像でしかないのです。死んでるのです。なにも根っこにないわけです。ただの制服みたいな、外向けに自分を飾るオシャレに目覚めた女子大生みたいなもんなわけです。
自分の底に物語が生きてないなら、みんなそれは嘘なんです。
精神(物語)のない行動は、結局、自分のエゴを満たすためにしか動きません。
「ワンダと巨像」の素晴らしいのは、その物語が「悪を倒す」ためのものじゃないというところです。倒した巨像に、思わず「ごめんなさい・・・」とつぶやきたくなるような、正義なき命の物語であるというところです。
なにが正しいかなんて考えて行動しても、それで得られるのはウンコみたいな自信です。そんな自信に振り回されるより、自分の根っこにある物語を生きる方が、よっぽど。僕は美しい生きかただという気がします。